2008年12月27日土曜日

TERIMA KASIH(ありがとう)

                         (写真は家の裏の景色)
      12月27日(土)
 メールをくれた皆さん、ありがとうございます。
年末ですね。
もうすぐ1年が終わるのかと思うと、早いなぁ・・・と感じます。

私の体温は冬の寒さで年明けを感じるようで、
まだまだ暑いこの夏のインドネシアでは、
年末という雰囲気がありません。
今年ももう終わりかぁ・・・というしみじみとした感じが今現在もまだないのです!

日本人にとって年末年始は本当に特別な大イベントなんだなぁ・・・
とあらためて感じたりして。

日本人同士で、「よいお年を!」とここでも言葉が交わされますが、
暑い気候の中では、いまいち実感が湧かないというか・・・
体で感じたことは、本当に染みついているものです。

毎年初日の出は近所の山で拝んでいたので、
来年はどこで拝もうかと頭を悩ませましたが、
雨季ということもあり山頂で拝むことはどこも難しそうです。

でも、初日の出を見ながらの新年の誓いはやっぱり必要なので、

どこかで初日の出を拝むつもりです。

今年の初日の出は、3-2の合格祈願にかけてしまったので、
来年は何か自分の事を!
どうやら今気づきましたが、新年の誓いではなくお願いしてたようです・・・

来年は新年の誓いをしよう。

みなさん、よいお年をお迎えください。
いつも、ありがとうございます。

本当に感謝!感謝!
TERIMA KASIH BANYAK


ジャカルタでクリスマス!

     記12月26日(金)
 任地を離れて初めての国内旅行に!
まずはジャカルタの隊員連絡所で、のんびり。
本当にのんびりしている。

任地では常に家族と一緒だったから、毎日がとてもにぎやかだった。
それもそれで良いのだけれど、家でのんびりできるという感じではなかったので、
とてもこの時間を楽しんでいる。
 
 まるで栃木から東京へ初めて上京した日のように、
任地から大都会へ来た私は、 すっかりおのぼりさん状態。
先輩隊員や、すでにこの辺に詳しい同期隊員に案内してもらって、
ジャカルタをぐるぐる。

 うちの家族の人たちは、お父さん以外ジャカルタにはまだ行ったことがない。
きっと来たら都会過ぎてびっくりするだろう。
こんな私でさえ、分かっていながらもやっぱり都会だなぁ・・・
って感じるから。

これから、同期と合流して旅が始まる。
いつも通り、何の計画も立てずにいきあたりばったりの旅だ。

ふふふ。

2008年12月20日土曜日

HARI AKSARA INTERNATIONAL


         記12月17日(水)
 いろいろとイベントは尽きず、今日はマカッサルで「国際識字デー」に参加。
南スラウェシ州のPLS課の人たちを中心にたくさんの人が集合。
かなりにぎやかなイベントで、私の県ではPLS課と、PLS課の事業に所属する職員約40名が出席した。
このイベントでは識字教育のメンバーや教員に対してのコンテストがあり、発表があったのだが・・・
 実はこの招待状が私の県には2日前に届き、課内はちょっとした大さわぎに。
1日では準備どころか、コンテスト参加のメンバーの決定さえできないからだ。
職員に声をかけ当日会場に参加するのがやっと。コンテストへの参加は見送った。
 招待状の作成日は12月1日になっていたのに、どうしてこういう事が起こるのだろう・・・
それにしてもコンテストに参加できなかったので、県としてはとても残念なようだった。

WARUNGでの食事




   記12月17日(水)
 マカッサルに行くと上司がいつもご飯をごちそうしてくれるのだが、海の街だけにすごい。
写真のように、クーラーボックスに入った魚の中から、自分で好きな魚を選び、調理方法を選び食べる。
 のだが、な・な・なんと。
1人一匹頼むのだ!食べきれーん!
と毎回訴えているのだが、それでも毎回注文される。
体の部分だけで、20cmはある魚を、一人で食べるのだ。
この魚のほかに、イカや野菜、スープなどを注文するものだから、テーブルの上は大変なことになっている。
日本人は魚をきれいに食べるといわれるけど、到底食べきれずに半身まるまる残ってしまうのだった・・・
 食べ物は粗末にしてはいけないと育ってきたが、ここではかなりの残飯が出ている。
うーん。

活動計画

  12月15日(月)
 勢いに乗じて、早速上司と私の活動計画を再考した。
とはいえ、語学的にうまく伝わっていないことが多く、前回までの交渉や、計画とはかなり違ってしまったが。
上司としても、私が何の目的で、何をしに来たのかが説明以外には具体的に分からなかった分想像もしがたいようだったが、今回は少し具体的に提示できたので少し進んだ感じ。
 初代隊員が通るべき道を順調に進んで、一つすっきりしたか?
今まで活動内容を上司に大枠でしか伝えられなかったり、じっくり相談に応じてくれると言うタイプの上司ではない分、こういう話ができずにいたのだが、今日は勝負をかけてみた。
帰国までの大枠の活動を初めて話す事ができた(そこまで話がもった)ので、画期的といえる。ただ一方的に私の話を聞くだけ(この場合は流されている場合が多く、こちらは話したつもりでも実際は伝わっていないことが多い)ではなく、意見の交換ができた。
とはいえ、もちろんいつも通り途中で他の人に話を横どられ全ては話しきれなかったが、今までよりはずっと進歩と言う感じ。
日本でいうところの相談とは程遠いが、そういえば外国人社長に雇われていたときもこんな感じで交渉や提案をしていたことを思い出した。
改まった場ではなく、日々の雑談の延長で交渉ごとを持ち込むという手段だ。
いつもこうしていたことを思い出し、言葉の齟齬はあるものの、この作戦は使えることを実感した。
活動計画が独り歩きせず、上司と歩調を合わせることによって、活動が一歩前進したように思う。
交渉ごとは苦手だが、ちょっと勇気を出してみたら思いのほかうまく話が進んだので、自分でもびっくりしている。

ジャカルタ上京

   12月13日(土)
9日から13日まで、隊員全員がジャカルタに上がり総会が開かれた。
ここインドネシアにはJV・SV(シニア)含め約50名の隊員が派遣されている。
赴任先南スラウェシ島には15名居るためすでに顔なじみの人もかなりいたが、それにしても多くの隊員が一同に集まったので、賑やかに行われた。
こんなにも多くの隊員がここで働いているのかと思うと、いろいろと思うところがあり、すでに帰国を間近に控えている隊員の帰国報告会や、職種別の活動紹介など自分の今後の活動の参考になることも多く、得るものが多かった。
ちょうど今後の活動の仕方について考え直す時期だったので、この機会に他の隊員の活動状況を聞いたり、情報交換をすることは意義のあることだった。
一人ひとり派遣地が違い、状況や環境も違い、目に見える成果ばかりが上がる隊員ばかりではないことも分かった。
大事なことは、現地の中でいかに共に働いていくかということだと感じた。
日本の技術を持ち込んだり、一方的に教えることだけでなく、本当に現地の人たちが望んでいることは何かを感じ同じ目線で考えながら、共に考え活動していくことだと再確認した。そう思って任地に居たつもりだったが、まだまだ表面しか見えておらず、村人の生活に入っているとはいいがたい自分を振り返ることができた。
とはいえ、自分のこの5ヶ月間の活動は間違っていないという確信を得、新たに気持ちが湧いてきた。
この勢いに乗って、今後の活動を展開していけたらいいと感じている。

ラマダン 犠牲祭



記12月8日(月)
5時起床。今日はIdul Adha(犠牲祭)だ。
10月1日のラマダンと同様、朝の6時には広場に集まり、お祈りが始まった。
今回はなんと、お祈りをしている家族の間に座ることができ、お祈りの様子をビデオ撮影させてもらった。
イブが日本に紹介するなら撮影していいよと言ってくれたのだ。
 今回のラマダンは、10月に比べるとちょっとだけ人が少なかった。
10月のほうが正式なのだろうか?
我が家でも10月は家族全員で参加したが、今日は若夫婦は参加せずに家に居たようだった。
 お祈りが終わると、イブの実家へ行く。
ラマダンには必ず食べるご飯を食べると、いよいよ今日のメインイベント会場へ。
イブの兄弟共用で使用しているという別荘(というより海の家のような感じで、小屋が建っているだけ)に移動する。

 今日は犠牲祭。
うちの親戚以外にも、たくさんの子どもたちが集まってきた。
この肉の一部を、貧しい人たちに分け与えるのがこの犠牲祭の目的の一つだ。
この日のために、イブの兄弟7人で1頭の大きな牛を買った。
写真の牛が犠牲祭に使われたもの。牛を引いているのが貧しい家の子どもたち。
その牛は、お祈りと共にHAJIの手によって命を絶たれ、すぐに解体された。
その命を絶つ瞬間から解体され肉になるまでの工程、その雰囲気がなんとも表現しがたいものだった。
日本人の多くは、気持ちが悪いと目を背けるだろうが、ここでは祈りを込めて小さなこどもからお年寄りまでが全てを見守る。
一部始終を見せてもらった(ビデオ撮影もできた)が、儀式的なその工程と、職人の包丁さばきの素晴らしさに思わず目が釘付けになってしまった。
きれいに解体され、肉になり余すところなく全てが分けられた。
まずは7家族分に分けられ、次に解体の職人や地元の人たちへ、最後に周りにいた貧しい子どもたちへと配られた。子どもたちは袋を持っていて、職人が肉片を分けるや否や肉を奪い合いながら、少しでも多くもらえるようにと切実にお願いしていた。
 我が家では、まだ一度も牛肉が食卓にあがったことはない。
その位、肉を食べると言うのは特別な行事でしかありえないのだ。
半年居て気づいたが、村人が牛肉を食べるなんてこの時くらいしかないようだ。
 仕事は全て村人が行い、他の人たちは見ているだけだ。
見えない階級社会があることも感じた。
文化的な行事に参加するたびに、この国の複雑さを感じている。
のち、前回同様親戚回りをする。
とはいえ、前回のラマダンよりは全体的にひっそりとしている感じ。
前回の方が賑やかだったかな?
 イスラムの犠牲祭を間近に見られたのは衝撃的ではあったが、貴重な経験となった。

2008年12月6日土曜日

木に登るおさるさんは誰?



記11月30日(日)
子どもたちと約束の日曜日。
ちゃんと来てくれるかなぁ・・・と心配ながらに待ち合わせ場所で待つ。
5分くらい遅れて、子どもたち第1弾が到着!
「待った?」
なんて、子どもたちは時間に正確なのだろうか?
1時間は待つ覚悟をしていたので、すばやい登場にびっくり。
集合場所まではバイク。
小学生だというのに、みんなバイクに乗っている。気をつけてね!って感じだ。
私が持参した竹とんぼを飛ばして遊んだり、近くの川に笹の舟を流したりして遊ぶ。
私はマンゴーが好きだといつもいっているので、近くの木に登りマンゴー狩り?
マンゴーの木はよくしなる。
2mくらいの高さは平気で登っていくので、落ちないかとハラハラしながら私は下でマンゴーをキャッチする役だ。
あっという間に2時間が経ってしまった。
日本の歌を教えてほしいと言われたので、キャンプでおなじみの「幸せなら手をたたこう」を歌った。
この歌なら、インドネシア語版もあるのでリズムが分かりやすい。
キャンプで子どもたちに歌を教えていたときのように、野原でおもいっきり歌ってみた。
みんな大さわぎ!

キャンプ場はもう冬だろうか。
暑いこの国で、日本の冬を思い出すといったらやはりキャンプ場の冬だ。
寒い外気に震えながら、暖かい鍋を囲む・・・
2年後までおあづけ。

村の講座に参加


記11月27日(木)
 講座を開くのに、何を行うのが村人にとって役に立つのかを考えている。
そんな話をすると、ちょうど今日村で講座が開かれるので連れて行ってくれるという話になった。
こんなチャンスは滅多にないと思い、早速同行することに。
村人の仕事の事情があるため、たいてい識字教室や講座は夕方開かれる。
 何度か通ったことのある市だったが、範囲は広くその地域には初めて足を踏み入れた。
 小麦粉で作る揚げ菓子で、日本のかりんとうに似ている。
小麦粉は手に入りやすい食材なのだ。
子どもたちも含め、20人くらいの人たちが集まり、実際にこの菓子作りに参加していた。
その奥では、ティカール(日本のござのようなもの)を作っている主婦たちもいた。
 女性の働く場所がないという事が悩みのようだ。
だからこうして、お菓子を作り市場で売ったり、ティカールを作って売ったりしている。
村人たちの雰囲気がとても良く、協力して作っていたし何よりたのしそうに活動していた。
こういう姿を見るのは、とても気持ちがはずむ。
こうやって、現場に来るとなんとか力になりたいなと、すごく熱い気持ちになる。
 少しでも、この村人たちの役に立てるようなことができるようになる日が来るといい。

村人とおしゃべり


記11月26日(水)
 午後は、初めてPAKETの授業風景を見学。
PAKETA(小学校の勉強)は、10歳から17歳くらいまでの子どもたちが居た。
PAKETB(中学校の勉強)では、15歳から23歳までの人がいた。
いずれも、20人のクラスだそうだが、実際に来ているのは10人弱。
昼間は何をしているのかと聞くと、家の手伝いでご飯を作ったり洗濯をしたり・・・という。
 なかなか授業に参加しない人が多いので始まる前に先生が各家庭に呼びにいったりもするそうだ。
今日はこれでも出席率は高いらしい。
ちょっと話をしたが、なかなか難しいものだ。
この子たちが、普通に学校で勉強できる環境なんて本当に作れるのだろうか?
まだ想像もつかない活動の先を考えて、途方にくれてしまった。

 夕方、自転車で散歩。
自転車で巡回できる識字教室へ行く。
その途中、何度か道端で話して日本語を教えたことのある中学生の集団に出会う。
いつもは、私の家の近所で遊んでいるところに私が出くわし、日本語を教えていたので彼らの家がこの近所だとは知らなかったのだ。
 雨が降ってきたこともあり、雨宿りをしながら雑談。
さすがは、子どもたち!日本人や私に対して興味津々だ。
宗教のことが気になるようで、仏教のお祈りの仕方や、お祈りの言葉を教えてとせがまれた。この国では私は仏教徒ということになっているので、一通りの話をする。
 何度か日本語を教えただけだったのだが、今度は定期的に教えてほしいとリクエスト。
早速今週日曜からという約束になった。
本当に日曜に来るのかな?と半信半疑だが、楽しみでもある。

 そうこうしながら、村へ。
この識字教室は以前にも紹介した東屋のような屋根の教室。
もちろん大雨の今日はそこではできず。
雨のため、教室も休みかと思いながら急いでいってみると、建設中の建物の開いている空間を利用して学習していた。
文字を書く練習が主な授業。
雨で参加者も少なかったが、来ている生徒は真面目に勉強していた。
学習も6ヶ月目になるので、かなり個人差がある。
字を見るのも難しいような年齢のおばあさんが熱心に学習している姿にはいつも感心させられている。
 雨で授業は早くきりあげ。
雨なので、夕食の準備を早めにするとか。
 私はというと、ある一軒の家に寄り、お茶タイム。
村人の一般的な反応として、初めて見た日本人に興味を持ってくれる人と、近寄らない人の二種類があるようだ。
この村は農民が多いとのことで、日本では農家が成功していると言う話が有名らしい。
日本へ出稼ぎに行きたいと思っているというおじさんが、私に興味を持って家に寄るようにと促してくれたのだった。
 こういう人と出会えると、次回からの訪問も行きやすくなる。
寄る家ができたからだ。
いろいろと日本の話に花が咲き、日本代表としてあれこれ話すのだが意外にあやふやなことが多くて返答に詰まることもしばしば。
日本の農業はどうやって発展したのか?
私の家も農家だけど、そういうことはまったく知らない・・・

村生活は刺激があって面白い。

ある少女の話

         記11月26日(水)
 事務所で仕事をしていると、16歳の女の子がPAKETBの資格証明書を受け取りに来た。事務所には私しかいなかったので、対応することに。
証明書の受け渡しは担当者しかできないので、少しここで待つように話し、その間私とおしゃべり。
彼女はタナトラジャ生まれだが、家の生活が苦しくトラジャでは生活できずに家のために、タカラールにいるおじを頼ってきたそう。小学校1年生から今までずっと、両親と離れて暮らしている。
タカラールでは、親には会えなかったが、小学校・中学校と進学させてもらえたそう。
でも、UJIAN NATIONAL(国家試験)で不合格になってしまい、中学校を卒業できずに再度試験を受けたそうだ。
この子の話では、この試験に79人の生徒が不合格だったそうだ。
まだこのシステムについては私自身良く分かっていないので、フォーマルの学校の生徒も合格できずに再受験をしてるなんて初耳だった。
 無事合格ができたので、1月にはトラジャに帰り、そこの高校に進学できるとのこと。
やっと家の人と暮らせるんだよと、とても嬉しそうに話してくれた。
どんなに家の事情が厳しくても、高校だけは卒業するんだよと話をして分かれた。
 彼女のような、日本で言う複雑な事情を持つ子どもたちは多いのだろうと思った。親を助けるために、親を手伝うために、彼女なりにできることをしているのだ。
こういう子どもたちが、いったいどれくらいいるのだろうか?
聞くたびに、本当に胸が痛い。

日本文化祭

記11月21日(金)
 マカッサルにある観光学校で開かれた日本文化祭。
学生を対象に行った。
南スラウェシに住む隊員が集合し、行う。
地元でやっていたインターナショナルフェスタや、PIF、キャンプでよくやっていたようなスタイルの行事だ。
 すでに企画してくれているものを手伝うような形の参加だった。
隊員間では初めての企画ということだったが、こんな感じでやれるのなら日本に居たときと同様な感じで企画運営ができそうだと実感。
 おもしろいことになりそうだ。

勉強机のその後

       記11月18日(火)
 新しい机を買うといっていたが、夕方突然パパが直すといって、とんかちを握っていた。
部屋から机を出し、釘をうちまくる。
 しばらくトントンしていたが、直った!
と一言。
筋交いのようなものはないので、釘で支えているもののみだが、一応再び使えるようになった。
重いものを乗せるとまた崩れてしまうので、注意して使うように言われた。
見栄えは悪いが、確かにまだ使える。
やたらと釘を打ったので、机の上は釘の頭があちこちにあるが、下敷きのようなものを使えば机の上でノートに文字を書くこともできそう。
 ただ、この机の上でPCを使うのは避けたほうがよさそうだ。
机の中の引き出しは使わないことにした。

多少の不自由はあるが、すぐに捨てずに直して使うのはいいことだ。

UJIAN NATIONALPAKETA・B

              記11月18日(火)
 今日から3日間、PAKETA(小学校)PAKETB(中学校)の卒業資格試験が行われる。
PAKETC(高校)は、県内で1箇所だけの試験会場だったが、今回は2箇所に分かれている。
受験者が遠方から来るにはお金と時間がかかってしまうので、そのための配慮らしい。
 上司と共に2箇所をまわる。
受験希望者は50人以上いたのだが、実際の受験者は10人足らず。
それぞれいろいろと事情があるようだ。
試験会場では、ここではお知らせできないような現場をみてしまった・・・
 でも、それが現状なのだなぁ・・・と同時に考えさせられた。
日本の価値観では決してやってはいけないことだが、ここではその価値観は通用しない。
受験会場に来たということだけでも、意欲があるということのようだ。
どうしてそういった現象が起こるのかと考えていくと、PKBMに満足に通えない現状がある。その理由を突き詰めていくと、貧困につきあたってしまうのだった。
 だから、この問題は難しいなぁ・・・と感じる。
日本の価値観を持って、ダメ!とは言い切れないのである。
ダメなことは分かっている。
でも、どうしてそうせざる終えないのか?
それをさせないためにどう対処すればいいのか?
 
 考えれば考えるだけ、変えるのは難しいと思ってしまう。
いろいろと考えさせられた。

 今日は同課に勤めていた一番仲の良かった同僚が、国家公務員に合格した。
登録制なのか、2004年から待っていたそうだ。
その間、学校外教育課で臨時職員のような形で働いていたとの事だった。
今朝も普通に仕事に来ていたが、突然決まった?そうだ。
全部で12人の採用があったという。
どういう手順を経て国家公務員になるのかはまだ分からないのだが、こんな風に突然決まるのだろうか?謎だ。(私の理解不足なだけだと思うが)
 とにかく、学校外教育課全員が喜んで、おめでとうの嵐だった。
私としては、一番役に立つ人材がこの課から去ってしまうのが惜しくもあるのだが。
でも、念願の国家公務員に本人はすごく喜んでいたので、もちろん私もおめでとう!と言っておいた。

2008年11月20日木曜日

勉強机を壊す?!

       記11月17日(月)
 自分の部屋には、勉強机が置いてある。
今日は午前中に地震の話で気が散ってしまい、ろくに仕事をしていなかったので夕方に思いなおして机に向かう。しばらく作業をしていると・・・
机のある壁の上のほうに釘がさしてあるのだが、その釘と紐を使って部屋の模様替えを思いついた。
気晴らしもかねて模様替えをしようとしたところ・・・
 釘の位置までは背が届かないので、机に乗ろうと片足をかけたところで、なんと
木製の机がグチャ
という音を立てて、崩れた。
机の上に当たる板がそのまま下に落ちたのだった。
机の上と引き出しにあるものは全てなだれ、机の板は曲がってしまった。あちゃ!
 聞くと、天板のように、ビスで簡単にしか留めて作られていないので、机の上に乗るのはダメらしい。つい、日本の感覚で大丈夫だろうと乗ってしまった。
体重が増加?していたせいもあるのかと思い、やってしまったぁ・・・
と思った瞬間には机の上と机の中にあったものがたたましい音を立てて落ちる。
その音を聞きつけてイブとイブの娘のDが駆けつけた。
壊れた机の前ですっかり気落ちしていると、「大丈夫!気にしないで!」と言ってくれた。
本当にたいしたことはないと言う感じの対応で、「パパが帰ってきたら壊れたって言えばいいよ」と言う。
 本当にごめんなさいと思いながら、パパの帰りを待って話をすると、「あーごめん!かなり古いから、気にしないで!今度は新しい丈夫なのを買うから!」とにこやかに言う。
神妙な顔つきだったようで、それを見ていたママは大笑い。
「今週はついていないね!(PCも1回壊れかけたし!)」
と、爆笑しながら慰めてくれた。
 確かにかなり使い込んだ机だったけど、普通に使っていればもう少し使えたのに。考えの足らなかった私。
日本に居たときからのことだから、やっぱり直らない!
ここでも、こわしちゃいました!
(これを見て爆笑している人が目に浮かぶようだ・・・とほほ)

寛大なホストファミリーの対応と、Tidak apa-apa(大丈夫だよ)と言う言葉に今日ほど励まされたことはないと思う。
こんなおおらかなインドネシア人、いったいどんなとき怒ったり困ったりするのだろうか?

地震の影響はなし!

       記11月17日(月)
 朝会社にいると、日本のKさんからTEL。
スラウェシ島で地震が起こったとのニュースが日本で流れたとの事。
心配して電話をくれたのだった。
別の島に居る同期隊員からも大丈夫かと連絡があった。

 こちらでは、地震があったという情報は全くなく、いつも通り出勤していた。
もちろん、同僚との話題にも出てはいなかった。
電話の後、あわてて同僚や教育局の人に確認するが誰も地震のあったことは知らなかった。
ネットも見られないので正しい情報も分からず。
 ネットのできる隊員から正しい情報が送られてきて、北スラウェシでの地震だという事が判明。
ちょうど同期隊員の派遣されている県だったので、心配していたが連絡が取れ無事だという。

 同僚に話すと、北スラウェシで地震は良くあるとの事。
でも、南スラウェシは安全だから大丈夫だよ。と、かなり楽観的に話していた。
地震の怖さを知っている日本人だから、隊員たちはかなり神経質に心配していたが、現地の人たちはどこか遠い国で起きた話のように、関心のない様子だった。
 きっと、日本でニュースを見た人たちには、心配をかけてしまったのではないかと思う。
これから、余震などに注意をしなくてはいけないけれど、今のところ何の影響もなく安全にタカラールで過ごしています!
TELやメールをくれた方、ニュースを見て驚かれた皆さん!
ご心配かけました!

PCの不調にドキドキ

    記11月16日(日)
 昨晩からつい先ほどまで、PCが使えずどうやったら直るのかと、隊員仲間に聞きまわっていた。
電源を入れたまま、長時間使用しなかったため、スリープモード(省電力モード)に自動的に切り替わったのだが、そのあとの再起動がうまくいかなかったのだ。
 以前も何度かこういう事があったのだが、その時は説明書の通り操作してできた。
今回は、説明書の通りに操作してみても動かなかったので、また違ったキーでも押してしまったのかと思ったりしていた。
 でも、今回ばかりはどうやっても動かずに、このままPC使えなくなったらどうしよう・・・とかなり心配してしまった。PCが使えないと、こうやってブログの更新も出来ないし、インターネットもしづらくなるし・・・
 かなり憂鬱になりながら昨晩を過ごした。
夜中に起きていじってみたけど、だめ。
今日はほぼあきらめていたのだが、さっき試しに操作してみると、今までと違う反応が・・・
なぜだ!
みごと、復活!
原因は分からない。と言うことは、また同じようなことが起こるかも。
でも、また使えるようになってよかった!(壊れたわけではないと思うけど)

日本からの便り②



            記11月15日(土)
 元同僚で、協力隊OGでもあるTさんからの小包が届く。
消印は10月8日。実に1ヶ月以上かかっている。
とはいえ、送ってくれていたことはE-MAILをもらっていたので知っていたのだが、なかなか自宅に届かないので、しびれをきらし今回も郵便局へ行ったのだった。
小包の出荷番号もすでに聞いてあったので、その番号を告げると調べてみるからと、郵便局員は言い、隣の部屋の荷物の収集所へ。
 なんとなく、荷物の積んであるダンボールの山をみわたすと、そのダンボールの一つは、なんと懐かしい日本語で「徳島にんじん」と書いてあるではないか!
中を見るまでもなく、これは日本からの荷物・・・つまり私宛の荷物だ!と説明をする。
一体この郵便局に何日保管されていたのだろう。
日本からはいくら遅くても1ヶ月以上はかからないはず。
とはいえ、保管されていただけでもラッキーだ!なくならなかったのだから!
いつ着いたの?と聞くと、しばらく考えてから、今日!と郵便局員の返事。
そんなわけないじゃん!と思いながらも、無事届いたからまぁ、よしとしようと深い追求はしないでおいた。
 すぐ持ち帰りたいからとサインをして持って帰ろうとし、自転車のかごに入れたら配達員が、配達しておくよ!とバイクに乗せてくれた。
バイクに乗せてある他の荷物を見ると、どうやら私の段ボール箱と共に、何日も放置されていたと思われるものたちだった。
やっと配達する気になったのか!という感じ。
でも、無事に届いた!!
 
 家に帰って早速開封。
箱の中には、日本製品がいろいろと入っていた!
それも、なんでこれが欲しいってわかったの?というものが、入っていてびっくり!
(かかとやすりとか、耳かきとか)
そうなんです!水浴びしかしないし、サンダル生活だから、かかとがざらざらなのだ。
何で分かったんだろう・・・
恐るべし元隊員。
その他、お好み焼きセットや味噌汁、のりなど、嬉しい日本食が!
そのバラエティの多さにいちいちびっくりしながら、すごく嬉しくなってしまった。

 学校が忙しい中、送ってくれた元隊員に大感謝!
そうそう、なんといってもこの派遣、受験のきっかけを与えてくれたのも、その後の相談に乗ってくれたのも、この夫婦なのだ。
彼女たちの隊員生活を聞くにつけ、派遣に胸膨らませていた。
自分も行ってみたいな。行けるのかな?と。
そんな日が懐かしく、今実際にこうして任地に居る自分をとても不思議に感じている。
 人との出会いと、ふとしたきっかけで、予想もしていなかった未来にたどり着くこともあるのだ。

川遊び





            記11月13日(木)
 前に、Musim Hujanの季節になったと書いたが、実際はこれからが本格的になるようだ。本当に雨の季節になると、一日中雨が続くよう。
今は季節の変わり目で一日に2時間くらい強い雨が降る。
今日は一日良い天気だったのだが、昨日の雨で家の隣にある小さな川には水がたっぷり!
こんないい状況を子どもたちがほおっておくわけがない!
 昼寝をしていると、子どもたちの声。
早速外に出てみると、最近仲良くなった近所の子どもたちが川遊び。
ゴミとその他の汚水も流れていて、決してきれいな川とはいえないのだが、子どもたちにとってはおかまいなし。
どこからかボールを調達してきて、大はしゃぎ。
写真の子どもたちは、小さく見えるが、中学2年生を筆頭に小学校高学年の子達だ。
ここの子どもたちは日本より3学年程体が小さく見える。
初めて会ったときは小学5年生位かと思いながら、それとなく学年を聞いたら中2だと言われてびっくり!
日本の子どもたちより発育が悪いのか、民族的に小さいのか分からないが、サイズは小柄だ。
 小学校4年生くらいになると、川で遊ぶ仲間に入れてもらえるよう。
3年生以下は危ないし、まだ幼いからと言うことで、泳がずに遊んでいるのを眺めている。
子どもたちは大はしゃぎで、嬉しそうに遊んでいる。
遊ぶ姿はどの国の子どももかわらない。
貪欲に、時間を忘れて遊んでいる。

その後は、サッカーとバレーボールをやるので一緒にやろうよと誘われ、近くの空き地へ。
バレーボールがうまいと子どもたちに認められたので、これからは遊びに誘ってもらえそうだ!

やっぱり、子どもたちと一緒の時間が一番楽しい!

スーパーでの失敗

       記11月12日(火)
 仕事を終えた後、スーパーへ。
スーパーと言っても、日本のそれとは比べ物にならない広さだが。
広さは日本のコンビニくらい。
タカラールに唯一1件だけあり、狭い店内に日用品から、食料、薬品となんでも売っている。
赴任後4ヶ月目に入ったが、ホームスティをしている私にはほとんど県内で買い物をする必要がないので、なんと今日初めてこの店で買い物をしたのだった。
商品には値段は表記されていない。
レジのレシートを見て値段が分かると言う状況。
友達の家に遊びに行くのに、ジュースとお菓子を購入。
 買い物を終えて、何気なく帰ってきたのだったが、レシートを見ると買ってもいないものが3つも記載されている!なぜだ!
 金額としては、日本円で100円くらいの上乗せ。
些細な金額なのだが、気分はよくない。
偶然のミスなのか、よくあることなのかそれさえもわからない。
外国人だからなのか?
余計なかんぐりをしてしまう。
 韓国の子に聞くと、彼女もたびたびあるという。

自分で気をつけない方が悪いのだから、これからは気をつけようと思う。
すっかり生活に慣れ、外国人という自分を忘れそうになってきた今日この頃。
でも、やはり外国人には変わりない。
いろいろと自分で気をつけねばならない。

雨の日の知恵



           記11月11日(火)
試験会場からの帰り道にベチャを使ったのだが、その途中で大雨に降られてしまい、すごいことに。
ベチャの運転手は、こういう時の雨宿り場所を良く知っていて、雨の降った瞬間に移動し、さっと屋根のある保健所の入り口に非難。
他にもバイクの人や、移動式屋台の人、さまざまな人が雨のやむのを待っている。
 そんな中で、ベチャにビニールのかぶせものをし、お客が濡れないように工夫をして運転をしている人もいる。
早く帰らなければいけなかったので、ベチャを乗り換え自宅へ向かう。
ベチャの中はむっとしたけれど、贅沢を言っている場合ではない。
こんな大雨の中、家に帰れること自体がラッキーだ!
 雨が降ると、2時間以上やまない日も多いのだが、この日は30分足らずでやんだ。
天気に左右され、いろいろと出来ることも限られてくるが自然とともに生きている感じ。
雨が降ると動けずに困る反面、やっと田植えの準備が出来るので農民にとっては恵みの雨だ。

UJIAN NATIONAL PAKET C





            記11月11日(火)
 朝からなんとなく課内が忙しい様子。
試験問題もさっき送られてきた。
会場が2箇所に分かれているので、試験問題、答案用紙も2箇所分に分ける。
 この試験は、通常の高校には通えなかった人が、PKBMで学んで受ける試験。
PAKET C =高校 の授業ということになるので、
この試験に合格すると、高校卒業と同等とみなされ、証明書がもらえるということだ。
日本では大検があるが、それの各学校向けの試験というところだろうか?
来週は小学校・中学校の同様の試験がある。
PLS課総動員して、会場へ。
 会場の試験監督は、TUTORや、会場高校の先生が行っており、私たちは試験問題の管理と、試験監督の管理だった。
試験教室は6箇所に分かれていたが、日本のような静寂した雰囲気はない。
試験中でも、高校生が構内でブラブラしていて笑い声が聞こえたり、試験に遅れてきた生徒が大声で話していたりする。
それにしても試験に遅れてくる生徒の多さにはびっくりした。
1教科2時間の試験だが、平気で30分以上遅れてくる。
試験全部解けるのかなぁ・・・と人ごとながら心配してしまった。
会場の廊下に居る同僚が、結構大声で話していてうるさかったり、教室内に入っては試験監督と大きな声でしゃべっていたりして、生徒の集中を妨げているんではないのかなぁとハラハラしてみていたが、特に気にしている様子もない。
それどころか、遅れてきた生徒は隣の子とべらべらしゃべってやる気がなさそうだ。
でも、試験監督は一つも注意らしいものをせず、いすに座っているだけだった。
日本との試験の仕方との違いに、日本の常識との差を感じた。
国の試験だというのにこんな感じでは、学校のテストなどはもっと集中に欠ける状況なのかな?
普段の生活を見ていても、集中力がなさそうだなぁ・・・という感じはしていたけれど、こういう状況が原因の一つなのかなぁ・・・と思ったりして。
集中するということが、どういう時間なのか分かる人が少ないのかもしれない(そんなことはないか?)
 この試験は1日2教科 1教科2時間で行われる。
14日(金)まで、毎日ここに通うことになる。

 一足先に私だけ帰宅し、夕方の巡回に備える。
夕方の巡回は、自転車で10分くらい。私の自転車散歩コースにあった!
こんな近くにKFがあったなんて!と思い、これから毎回通えそうで楽しみ。
家の近所でたまに話をする中学生の家の近くで、家の人がKFで勉強していた。
ここの教室は、わらの屋根で床は竹の東屋みたいなものだから、さっきまでの雨でずぶぬれになってしまい、勉強どころではなかったようだ。
 
 KF(識字教室)は12月までで終了。
雨が降るようになると、田んぼに水が入りうまく田植えができるとのこと。
この期間に田植えをし、稲を育てるので忙しくなるので、その前に教室は終了するそうだ。
1月から3月は大雨で洪水になってしまうとのことなので、教室が使えなくなってしまうし、集まるのさえ困難になってしまうようだ。

 終了後、担当者の家へ寄る。
おやつを食べながら、仕事の話をする。
いろいろと話を聞けたのでよかったが、やはり援助の仕方に関しては、お金の支援を遠巻きにお願いされてしまった。
いままでよく協力してくれた人だけに戸惑ったが、その都度協力隊の仕事内容を話して分かってもらうしかないと思い、以前話したけど、と前置きして何度目かの同じ説明をした。

 生活向上のために、できることって、なんだろう・・・?
村人が、どうやってお金を稼ぐことができるのか?
今の私の仕事は、その仕事(職種)を見つけることだ。

1冊の日記帳



       記11月10日(月)
 タカラール赴任してから1日も欠かさずに記入してきた日記帳。
この青いノートは私が出国する数日前に、元同僚(と言っても先輩)の人から2年間の出来事をぜひ書きとめてね!と手紙と一緒にもらったものだった。
 タカラールに赴任となった、8月1日から昨日までの出来事が、このノートには綴られている。
日記と言うより、思いついたことをいたずらに書き込んだにすぎないようなものだが。
毎朝誰もまだ出勤していない事務所で、前日の生活を思い出しながら書いていたのだ。
嬉しかった事や困ったこと、時には日本のことを思い出したこと、その他にもあれこれと書いてある。
今は読み返したりしないが、数年後に読んだら面白そうだ。
 たまたま妹が送ってくれた荷物の中に、この青いノートと色違いのピンクのノートがあったので、2冊目の日記帳はこのピンクのノートにした。
青いノートをくれた元同僚が、日記帳がなくなる頃にはまた次のを送ってくれると言っていたので、楽しみに待つこととしよう!

SKBでの講座見学


          記11月11日(火)
 PLS課でSKBの会議室を使用することになり、上司とみんなで向かう。
SKBには赴任後すぐに挨拶にいったきりだったので、今日は施設内もじっくりと見学。
同期隊員の勤務している県のSKBとは比べ物にならないくらい施設は古く設備も何もなく、きっとあまり活発には使われていないだろうなぁ・・・という感じ。
 会議室には、50席以上の椅子が並べられる広さがある。
だが、天井には大きな穴があいたまま、電気も壊れたままついていないし、もちろんクーラーはついていないので、すごく暑い。
(タカラールではほとんどの施設にクーラーはない。私の職場も扇風機で暑さをしのいでいる。県の教育局内では、唯一県の教育長の部屋にだけある)
 この施設では、県民のために講座を開くことが仕事で、PLS課の仕事内容と同様な部分が多い。
 
 今日はPLS課の下部組織にあたるノンフォーマルの幼稚園、フォーマルの幼稚園両方の先生たちが集まって、会議。
韓国から派遣されている隊員の講座第一回が開かれたのだ。
3つの市から、40人くらい集まっていた。

 明日はUJIAN NATIONAL(国で定められている試験)の日だ。
私もPLS課の一員として、会場に行くことになるので楽しみだ。

卒業試験直前講座




      記11月9日(日)
 昨日に引き続き、PAKET Cの入試に向けての説明会に参加。
今日は入試直前講座という感じで、各教科の過去問を使い学習するものだった。
問題自体が難しいこともあり、学校を中退して授業を完全に受けていない人にとっては、難しい問題ばかりだったようだ。
ほとんど答えを写すような形で、実際の試験が危ぶまれる。
でも、すべてマークシートなので、なんとかなるのかな?
 この授業の講師として、私立高校の先生が何人か来ていて、その人たちと話をすることができた。
特に仲良くなったのは、女の英語の先生。
英語とインドネシア語をミックスしてお互いしゃべった。
私立高校の時間講師?をしているのか、給料は時間給だということだった。
その給料があまりにも安すぎてびっくり!
1時間の給料は、金額にするとなんと缶ジュース1本分。
びっくりして、最初私が数字を聞き間違えているのかと思った。
すごく安いので、彼女はどんな風に暮らしているのかと、心配になる。
私の課の担当しているKFのTUTOR(識字教室の先生)は給料が少ないと聞いていたが、この人と比べたら、すごくいい給料だ、比べられないくらいだ。
その上、大体TUTORは他の仕事もかけ持ちしているので、生活できるくらいの給料は入っているという。
 日本の教員の給料は高いのか?と聞かれたけど、思わず言葉を濁してしまった。
彼女の給料の何十倍ももらっていたとは、どうしてか言えなかった。

 45分くらいで次の科目へ。午前中いっぱい学習をしてお昼休み。
午後も授業があると聞いていたのだが、参加者がいなくなった?とかでお昼で終わってしまった。
帰りながらお昼はこの市のマネジメント担当の人が COTO KONRO(肉の煮込みスープ)をご馳走してくれた。(写真のもの。本当はもっと肉が入っている。私は苦手なのでと言って減らしてもらった。)
COTOは南スラウェシの名物で、隣の県のジェネポントでは、馬肉、タカラールやマカッサルでは牛肉が使われる。内臓を煮込んだものもあり、注文時にどちらか選べる店が多い。
今日は水牛の肉が骨のついたまま入っているスープだった。
あんまり得意な食べ物でないと思っていたが、スープは確かにおいしい。
肉はあまり食べなくても、スープだけで十分おいしかった。
ご飯を食べていると、急に大雨になり店でやむまで待つことに。
その間にいろいろと話をすることになり、また新たに分かったことが多かった。
ご馳走してくれた人は、私の上司のお兄さんで、よく事務所では会っていたが個人的に話をすることはあまりなかった。
どんな人かと思っていたのだが、私のためにゆっくり話してくれたり、何度か繰り返して話をしてくれたりととても親切な人だった。
 話によると、お兄さんは高校を終えてすぐに教員として働き、大学には行けなかったそう。その分弟は高校・大学をきちんと出ている。
だから、弟の方が大出世をとげ、今では自分の給料の何倍ももらっているとの事。
弟は車を持っているが、自分は持っていないから、君を案内してあげられない。バイクだけなんだよ。と話す。
今までは高校卒でも教員が務まったが、今後はそういうわけには行かないので、大学に通い直し?最終学歴をあげないといけないと言っていた。
 住んでいる所も、事務所の近くの街ではなく、村に住んでいる。
村の暮らしが好きで、バイクで村を回って仕事をするのが好きだと話していた。
ずっと話を聞いていたが、決して弟をうらやましがっているわけではないような気がした。
しっかりと自分の生き方を持っていて、自分の生き方はこれでよしという感じ。
負け惜しみではなくて、すがすがしい言い方だった(言葉全部が理解できているわけではないので、雰囲気でそう感じた)。
だから、バイクの後ろに乗るならば、いつでも村を案内してあげるよ!と話してくれた。
(JICAで禁止されているので、もちろんできないことだが)
それに、きっと弟と一緒に行く店は高級店ばかりだろうから、反対に一般の村の人が食べているようなものをこれからたくさん食べさせてあげるからね!とも言ってくれた。

 お店では、日本人がタカラールで働いているのか!と驚かれ、(ここが街の中心地ではなく村にある店だったので!)スイカが好きだと話したら、店主が早速冷蔵庫にあるスイカを食べさせてくれた。
その上、土産にとスイカを1つ持たせてくれ、至れり尽くせりで本当に、ありがとうございます!という感じ。

 やまない雨の中、ペテペテに乗って帰ってきた。
今日も優しいインドネシア人に出会えてよかった。
ここのところ、嬉しい出会いが多くてラッキーな日々を送っている。

 その余韻に浸りながら、同期隊員が私の家に寄ってくれるのを待つ。
同期隊員が家に来たのは、赴任当日を除いて初めてだ。
ホームスティ先の人たちもとても喜んでくれ、帰った後にも名前を何度も呼び覚えていた。
どうやら覚えづらい名前らしい。
活動についていろいろと話をしていたら、あっという間に彼女の帰宅時間になってしまった!

盛り沢山の土日だったけど、今後の活動にはいいきっかけとなった。
休日返上で、やっと働いた!という実感の持てた2日間だ。

UJIAN NATIONALの受験の心得

             記11月8日(土)
先に掲載した巡回の後は、一度家に帰り昼食。
のちペテペテで別の市へ。
PAKET Cのテストが全国一斉に来週行われるので、その受験票を配布したり心得を話したり。
受験生は60人くらい集まっていた(受験者はもっと多いのだが、今日の参加者はこの位)。
実は昨日急にこれがあるから行って見てくるといいと上司に話され、1日POLUT巡回の予定を急遽変更したのだった。
でも、昨日の時点では説明を聞いても何をするために集まるのか分からず、とにかく来てみたのだ。
なるほど!と思い、私も混じって話を聞くことに。
上司は来ない予定だったが、寄ってみたらしく受験者に心得を話していた。
かなり長い時間だったが、内容は日本とほぼ同じようだった。

マークシート?なので、消しゴムでよく消すこと
迷っても、どれかを選ぶこと
どの教科もまんべんなく点数を取ること。
(合計点が高くても、最低基準点数を2教科下回ると不合格になるらしい)
などなど。

この試験の答案はその日のうちにジャカルタに送られるとの事。
そこで一括して採点、のち合格不合格が私の勤務先に送られてくるようだ。
 
 そういえば、私が赴任したばかりの時が、ちょうど試験の発表日後間もないころだった。
県の教育局に一覧表が張り出され、合格発表を見に来る人と、合格手続きをする人でごったがえしていた。
まだ赴任したばかりの私は、試験の合格発表ということは分かったが、詳細は分からなかった。
こうやって、いろいろと仕事がつながっていくのは面白い。
明日もまた、ここで試験の準備がある。
私も一緒に準備をするつもりだ。

今日は、休日出勤する価値のある一日だった。
やっと、仕事をしている!という感じになってきた。

歩いて巡回


        記11月8日(土)
 勤務先は土日休日だが、市の教育局は土曜まで。
識字教室は土日に関係なく行われている。
 識字教室の開始から終了までを見学したいと希望し、再びPOLUTへ来たのだった。
初めて一人でペテペテに乗って巡回先まで行くことになっていたが、行く準備をしていると電話が鳴り、担当者の上司が車で迎えに来てくれることに。
一人でペテペテに乗って現地に行くことはできるが、わざわざ迎えに来てくれるなんてこういう気持ちはとてもありがたいなぁ・・・と思う。
 市の教育局には少し早めに着いたので、識字教室の開始時間まで近所をぐるぐる。
教育局の裏には小学校があり、ちょうど休み時間中の子どもたちが元気に遊んでいる。
インドネシアでは、休憩時間は校舎外に自由に出て行くことができるようだ。
近くのお店でお菓子を買って食べたりも出来る。
だから今日も、教育局の庭で鬼ごっこをしている姿があったり、学校の敷地内にちょっとした駄菓子やさんが休憩時間中だけ店を広げていたりするのを見ていた。
駄菓子やではチョコレートや、お菓子、手作りのパンなどが売られている。
 今後の仕事の参考に、この駄菓子やさんで何を売っているのかリサーチしたいと話すと、
また別の店に連れて行ってくれた。

 その店は中学校の向かいにあり、駄菓子や兼出店のような感じになっていて、そこで簡単な軽食を食べることが出来る。
料理としては、かきあげのようなもの、芋をあげたもの、スープなど。
とても安く、子どもたちに提供している。
また、チョコや溶かして飲むジュースの粉なども売っており、休み時間は子どもたちでいっぱいになるらしい。
子どもたちが休み時間になる少し前に寄ったので、じっくりと料理を作る様子や店の様子などを見ることができた。もちろん味見といって、食べたりして・・・
安くておいしくて、とても感激!
これなら子どもたちに人気があるのもうなずけるという感じ。
私たちが食べ終わる頃に、ちょうど子どもたちがやってきはじめた。
こちらの学校では、7時半頃には登校なので、子どもたちは6時台に朝ごはんを済ませているから、ちょうど10時半頃はおなかがすくようだ。
中学生だったので、もりもりと食べていた。(写真)
この店はとても繁盛しており、成功しているようだ。
 
このような出店や駄菓子屋がうまく開けるシステムを考えたいと思っている。
職業訓練校で、出店開店講座のようなものが開けたら、おもしろいなぁ・・・と思っていると担当者に話したら、それは面白いとのってくれた。
実際できたら面白いと思うが、問題は単価が低く利益が薄いこと。
市場で売っているものもそうだが、利益が薄すぎてほとんど儲けがないのがこの土地の人の仕事の現状だ。
もう少しモニタリングを重ねて、実際できるとよいと思っている。

 次におととい見せてもらった伝統菓子を、市場で売っている様子を見に行く。
この市の市場もすごく活気があり、物が所狭しと売られている。
見ているだけでも面白く、目移りしながらあちこちとぐるぐる。
伝統菓子の売り場を発見!
販売状況が分かり、菓子作りから販売までの一連の流れが分かった。

 寄り道をしながら、歩いて識字教室のある村へ。
予定時間よりだいぶ遅れてしまった。
とはいっても、識字教室の先生は私と一緒に行動していたのでまだ授業は始まっていない。だいぶ時間が遅くなったなぁ・・と心の中で思いながら教室となっている民家に着くと、まだ誰一人来ていない。
話を聞くと、メンバーの人たちは、みんなさっき寄って来た市場で物を売ることをなりわいとしているとのこと。
だから、物が全て売れれば帰ってくるけれど、売れないと売れるまで市場に居なくてはならない。
メンバーの中には、勉強が大事といって時間で帰ってきてしまう人も最近はいるという話。
私たちの到着を見て、一人、また一人と徐々に集まってきた。
予定より約1時間くらい遅れて授業が始まった。
 この授業の面白いことといったら!
生徒は10人くらいなはずなのだが、近所の人たちがどんどん集まってきて、子どもも沢山いてにぎやか。
すでに学習を終え、読み書きが出来るようになった人も集まってきて、まだ出来ない人に教えたりしている。
授業とは言うけれど、とても和やかで笑いの絶えない時間。
見ているこちらも思わずほほえんでしまうような、いい雰囲気の授業だった。
2時間の学習の予定だが、ちょうどお昼時だし子どもたちも長時間お母さんなしではいられないこともあり、毎回そこそこできりあげているようだ。

 続いて歩いて3分くらいの、別の識字教室へ。
今日同行してくれた2人の担当者が先の教室とこの教室をそれぞれ教えているそう。
この授業もいい雰囲気ですすめられていた。
よく聞いていると、2人とも教え方が上手で楽しそうに授業をしている。
いろいろと質問をしているが、生徒はまるで子どものように無邪気に答えているのが見ていてとてもほほえましかった。
分かるということは面白いのだ。
嬉しそうに答えるおばあさんを見て、そう思った。
年齢は、もう70歳近いというおばあさんも、楽しそうに一生懸命勉強している。
宿題も出るようで、やってきたとか、やれなかったとかおばあさん同士で話している。
少しずつだが新しい単語を覚え、嬉しそうに学んでいる姿を見ていると、日本の子どもたちにこの様子をみせてあげたいなぁ・・・と強く感じた。
孫に教わりながら、アルファベットを書くおばあちゃん。
一桁の足し算引き算を、一生懸命計算しているおばあちゃん。
どれも日本では考えられないことだが、これが日本の教育の質の高さなんだなと感じた。
もちろんインドネシアも今は義務教育が浸透しつつあるから、これからの人は違うのかもしれないけれど。

 帰りも歩いて市の教育局へ。
市の教育局からは、別の人が送ってくれることに。
結局ペテペテは使わず済んでしまった。
親切な周りの人たちに感謝!

自転車で巡回


       記11月7日(金)
巡回に行きたいので連れて いって!
と話すと、たいていOK!じゃあ、後で迎えにくるよ!
とそこまではいいのだが・・・
だからといって数日のうちに迎えに来てくれるとは限らず、その日がいつの何時というところまで具体的に約束しないと、本当に迎えに来てはもらえない。
あとで!という言葉は、本当に何週間も先の後になってしまうことが多いのだ。
だから、あまり先のほうまで予定をたてたりはしないで、2日位前に「連れてって!」とお願いするようにし、約束をとりつける。
 日本に居たときには、1ヶ月位先の約束は普通にしていたし、お互いがそれを忘れるということはほとんどなかったが、ここではそれは通用しない。
だから、この日に行きたいな!というのを自分であらかじめ決めているが、実際の交渉は直前に行っている。
たいていはみんな都合をつけてくれるし、だめな場合はむこうから別の日を指定してくれるから。
この作戦はうまくいっている。
計画通り(というほどものもでもないが)に巡回したいなと思い、新たな作戦として、自転車でまわれたり、比較的道の分かりやすいところ(行きやすい所)の巡回を増やすようにしようと考えた。

 早速、担当者に連絡をし、自転車で行けそうな識字教室を案内してもらう。
家の近所だが、自転車を15分くらい走らせると識字教室が行われている村がある。
夕方の3時から5時までの教室だ。
担当者はバイク、私は自転車で村へ向かう。
突然の私の登場に、いつも通り最初は怪訝な目で見られていたが、時間が経つうちに少しずつ話が出来るようになった。
 マカッサル語の分からない私は、みんなが何をしゃべっているのか全然分からず、ぼーっとしていたのだが、そのうちなりゆきで、主婦の生徒がマカッサル語の単語を私に教えてくれることに…
 端のほうでひっそりと教わっていたはずがなぜかみんな加わってきてしまい、いつの間にか私のためのマカッサル語教室になってしまった。
申し訳なく思う反面、こんなチャンスは滅多にないのでいろいろと教えてもらった!
ラッキー!
 こうして一緒に話をしていると、早く語学ができるようになりたいなぁ・・・と思う。
自由に言いたいことが伝えられるって、素晴らしいことだなと思う。
ここの人は、かなり無茶なインドネシア語でも、仲良くなると分かってあげようとして聞いてくれるのが分かる。
とはいえ、語学は1日で出来るようになるわけではなく、なかなか上達はしないのだけど。

帰りはみんなが見送ってくれて、またおいでと言われて、とても嬉しくなった。
今日は識字教室の巡回をしてすごく楽しかった!
 
それから、今日は午前中Kantorに各市の担当者が次々に来たので、巡回の約束をいくつか取りつけた。
その上、ラッキーにも明日と明後日の行事に連れて行ってもらえることになり、土日ではあるがこのチャンスを逃してはならないとばかりに、参加しますと返事をした。

じっとKantorに居るだけでは、何も始まらない。
だから、このチャンスを大事にしたい。
土日を惜しんで働いても、2年間しかこの地には居られないのだから。

今日はいろいろと、いいことが重なった日だった。

巡回 POLUT


   記11月6日(木)
 久しぶりの巡回。
この市には数回足を運んでいる。
担当者は年齢が近く、少しずつ話を聞いてくれるようになったので一緒に活動しやすくなってきた。HAさんとJUMさんだ。
JUMさんの家の敷地を使って、この二人が共同経営?しているPKBMとKBとTBMの施設へ。
KB(幼稚園のインフォーマル)は、週に3回の通園なので巡回した日は幼児は居なかった。
だが、施設は整備されていて、場所は狭いがきちんと管理が行き届いている感じ。
いくつかTKをまわり、KF(識字教室)も巡回。
以前にも巡回したことのあるKFへ。
行くと勉強場所の様子が少し変わっていた。
以前巡回したときは識字教室の行われていた場所だが、1ヶ月位前から、同じ場所で午前中はKBを行っているとの事。
もともと一般的な高床式の家の1階が授業場所だったのだが、その一部を竹で囲い教室のようなものを作ったのだ。すべてTUTOR(ノンフォーマルの先生)一人で作ったのだと聞いて、よくがんばったなぁ・・・!と応援したくなった。
仕事を生み出し、仕事の工夫をしている人だ。
実際にKFのTUTORだけの給料では、少なすぎて生活してはいけないからと、考えたのだろう。

その後は、村のおばあさんの家へ。
マカッサルの伝統的なお菓子の作り手の家にお邪魔することができた。
Kanrejawa Keboという名前だ。
材料は小麦粉と卵、砂糖。
日本のかりんとうのような味と歯ざわりだ。
できたお菓子は、市場で売ったり、結婚式用に売るらしい。
結婚式や、祝い事には必ず食べられるものらしく、腕のいいこの家のお菓子は有名だそうだ。
このお菓子作りを全工程見学することができた。
中心となって作っているのは、70歳のおばあちゃん。
変な外国人(私のこと)には目もくれずに、しゃべりながらも器用に手際よく作っている。
その手も口も休むことなく動かされ、あっという間に次々と作られていく。
その手伝いをしているのが18歳の女の子で、孫だった。
別の部屋でも、10代の女の子たちが別のお菓子を作っている。
話を聞いていて分かったのだが、このおばあちゃんはKFの生徒。
孫はPKBMのPAKET B(中学校の学習内容を学習)の生徒だそうだ。
お邪魔したのは午前中だったのだが、こうして朝から夕方前まで仕事をし、夕方からそれぞれ勉強をしに出かけているようだった。
 こうやって家の仕事を手伝っていて、学校を中退してしまう子に初めて出会った。
この家にとって、大事な働き手の彼女が午前中に普通の学校に通ってしまったら、家業に大きな影響を与えてしまうのだろう。
 偶然会えた人たちだが、村人の生活をじっくり見ることができて、少しだけ状況把握が出来た気がしている。
学習も、仕事もどちらも大事なのだが、どちらかを優先させなければいけないとしたら、やはり今の生活を維持していくことの方が大事なのだろう。
こういう人々に、どうやって学習できる機会や環境を与えていけるか?ということが、自分の仕事の一つであるということが、実感として分かったように思う。
 帰りにやっと私を直視してくれたおばあちゃんは、さっき作ったお菓子全部じゃないかというほどのお土産を私にくれた。明日の販売分全部じゃないかと思うと、すごく申し訳ない感じ。
でも、持って行きなさいと何度も言われたので、ありがたくいただいた。
もっとおばあちゃんと話がしたいなと思った。
いろいろ話を聞いてみたい。
でも、そこにまた言葉の壁が・・・
マカッサル語のまだ出来ない私は、おばあちゃんの話していること何一つ、通訳なしでは聞き取れなかったのだ。あー話したい!
と心から思った。
少しずつ、マカッサル語も勉強していこうと思う。

 今日の巡回は、今までのように視察しに日本人が来る!というような事前準備のあったものではなかったので、どの巡回先も通常の活動をしていた。
だからこそ、私も飾らない普段の生活や村人たちと出会えることになった。
巡回自体がより楽しみになったことも、今日の成果だ。
 あとは、どうやって村まで行くか?という交通手段の確保の問題だな、と感じている。
なんとかして巡回を定期化したいものだ。

隣の県へ再び!


記11月5日(水)
 JICAオフィスの方々が視察にいくということで、私も同行させてもらうことに。
2週間前に行った県だ。
同期隊員の理数科教師と、先輩隊員の活動場所を見てくる。
 中学校の構内に入ったのは初めて。自分の県の学校は残念ながらまだ入ったことがない。
授業は理科のリトマス試験紙を使って、身近な物がアルカリ性か酸性か調べる授業。
理科室での授業だった。
席の並び方が面白い。男女別に座っている。
イスラムの国だからだと思う。話には聞いていたが、本当だった。
授業中だというのに、なぜか廊下には沢山の子どもたち。(写真)
日本人の来訪を喜び、ものめずらしそうにのぞいている。
授業中の子どもたちも、どことなくそわそわしたり、話しかけてきたりして。
まるで日本の研究授業のようだ。
子どもたちは天真爛漫で、明るかった。
同期隊員の質問に、声をそろえて大きな声で答えていた。
久しぶりの教室に自分の胸が躍っているのがはっきりと分かった。

今日は、元勤務校の合唱コンクールだと聞いている。
こんな日に、やっとインドネシアの中学校に足を運べたのも、何かの運命に違いない。
合唱コンクール、今思い出しても胸の高鳴る一日だったな。
子どもたちの力が最も集結されるからだろうか?
担任として、とても嬉しい日だったことを思い出し、感慨深くなってしまった。

結婚披露宴




    記11月4日(火)
 朝から巡礼の見送りを見学、仕事から帰ってすぐに着替えて結婚式に出席。
Pesta Berkawinan(結婚披露宴?)という。
昨晩に引き続き、同じ家で結婚式が行われる。
今日は新郎も揃い、みんながお祝いの言葉を言う。
私も挨拶をしなくてはいけなかったが、なんという言葉がふさわしいのか事前学習をしていなかったので、困った。
 今日もご馳走だ。3日続くと、もう見ているだけでおなかがいっぱいになる。
一生懸命ご飯を食べると、それ以上のKUE(お菓子)が登場。
ものめずらしい私に声をかけようとしてか、食べろ食べろと何人もの人がいうので、それに答えるたびに食べる量もどんどん増えていってしまい、苦しくなってしまった。
 結婚披露宴は昼食をはさんで昼に行われるのが一般的。
披露宴には一度に300~400人(もちろんそれ以上もある)が招待されている。
簡単に新郎新婦に挨拶を済ませた人は、食事をとりすぐ帰る人も多い。
野外ステージのようなものが設置され、カラオケも始まる。
誰の結婚式か分からないのに連れて行かれ、お昼を食べたことはよくあるが、今回のように身内のは初めてだったので、結婚披露宴の一部始終が見られた感じ。
 挨拶に疲れただろうなぁ・・・という新郎新婦をよそに、みんなで盛り上がっている。
まだまだPESTAは続くようだったが、今日もイブと先に早帰り。
来る時には雨だった空が、いつの間にかさわやかな空に変わっていた。
ベチャに乗って、風に吹かれながら帰ってくる。
ベチャに乗ると、なぜか町に暮らしている実感が湧いてくる。
 
 この数日は、いろいろなインドネシア文化に触れることができ、毎日忙しいが、驚きの連続でもあった。
人が生きるところには歴史があり文化があると何かの本で読んだが、ここで生活することによって、その一つ一つを味わっている。
こうやって、ここで生活できる2年間を大切にしたいなと、しみじみ思った。

メッカ大巡礼


             記11月4日(火)
 朝7時前から大通りが騒がしい。
家のイブもすでにマンディーを済ませ、一緒に朝食をとると、私に家の鍵を預けて出かけてしまった。
どこにいくのか説明を聞いたが、新出単語で分からず。
私はそのままkantorへ。
職場は心なしか静かで、やっぱり今日はなにかイベントがあるらしい・・・
まだPLS課は誰も出勤していないので、他の課の人に大通りで一体何があるのかと尋ねてみた。
今日は、年に1度、メッカでの大巡礼を行いに行く人たちの出発の日だということだった。
メッカでの巡礼を行った人は、HAJI(ハジ)という称号を与えられる。
名前の前にHAJIがついている人は、もうメッカに行ったということのようだ。
このHAJIの称号を持っている人は、周りの人に尊敬され、一目おかれている。
宗教に疎いので正しいかどうか分からないが、現地の人に聞いた話では敬虔な信者をあらわすようだ。
ただし、この巡礼参加には、国家公務員係長級の給料1.5年分がかかる。
家のBapakの給料では、2年分以上と言っていた。
でも、メッカ巡礼の為には皆懸命にお金を準備するらしく、参加者はあとをたたない。
県で集まって大勢で参加するらしいが、現在は登録待ちでなかなか行けないそうだ。
 私の上司夫婦はまだ40代だが、すでに参加している。
かなりのお金持ちなので、若いうちに参加したようだ。
私の家のイブは昨年、仕事を退職したのでそれから行ったとの事。
このメッカ巡礼は40日ほどかかるらしい。

この様子を見てみたいというと、同僚が連れて行ってくれた。
県庁に6台の大型バスが並ぶ。
その前に数え切れないほどの人波。家族や親戚が集まり、涙ながらに別れを惜しんでいる。
子どもはもちろん、大人も男の人も、人目をはばからず大声をあげ涙を流している。
その様子はとても重々しく、家族中にとって大きな出来事を思わせた。
1ヶ月の別れは、こんなにも悲しさを感じさせるものなのかと、日本との違いを感じる。
お父さんの1ヶ月の出張に、こんな風に涙ながらに見送りをするのかなぁ?
私たちがインドネシアに出てきたときも、こんなにも大泣きする姿はなかった。
(涙をみせなかっただけかもしれないが)
私の感覚ではたった1ヶ月と思うけれど、この国の人たちにとっては、家族と別れて1ヶ月も過ごすなんて、涙なくしては別れられないのだ。

 今回の別れの場面を見ていて、すごく納得がいった。
私がここに来たとき、2年も家族と離れて寂しくないのか?なんでそんな思いをしてまで来たのだ?親には毎日連絡しているのか?などなど会う人ごとに尋ねられた。
もちろん、今でも時々尋ねられるが。
インドネシアに来てからまだ一度も家族に電話をしていないと正直に話すと、なんで連絡しないんだ!と結構真剣に怒られた。
今日の様子を見ていて、すごく合点がいった。
メッカが簡単に連絡の取れる場所でないということもあるが、この島の人たちにとっては旅行さえもあまり行くことがなく、家族とはいつも身近にいるもので、常に行動を共にするものなのだ。
 
バスが出発すると、人波が押しかけるように後を追っていく。
まるでお祭りの人ごみのようで、後ろから横から押されて歩いていく。
沢山の警察官が警備をしており、すりに注意をしてくださいと呼びかけている。
大通りは大渋滞で一般の車は動かない。道路はすでに見送りの人の車やバイクが停められており、動ける余地はない。
見送りの車1台に10人くらいの人が乗って、バスの後ろをついていく。空港まで見送りに行くとの事だった。
すごい行列で、これが空港まで続くのかと思うと、きっと大渋滞を巻き起こすのだろうという感じ。
この見送りのために、一体何人の人が動いているのだろう。
仕事どころではないようだ。
きっとどの職場でも欠勤者続出に違いない。
道路も大混雑で、通常の仕事はできないようだし。
 こういう行事のあるたびごとに、いちいち驚いてしまう。
ここまで大衆を惹きつける?イベントって、すごい。
参加者の関係者以外も、ひとめみにいこうと道路に集まっているのだから・・・
 運よく?私は県庁の敷地内にあった停車中のバスのそばでこの光景を写真に収めることができたのだが、帰ってきてからイブに話すと、何で中に入れたの?普通は入れないのよ!と言っていた。
友人のおかげか?
貴重な場面に出くわすことができたようだ。
今日のこの出来事は、すごく国民性を感じさせたものだった。

 夜に若い方のイブ(ATと呼ぶ)にこの写真たちを見せたら、「みんな泣いているねぇ」と言っていた。
日本ではあまりないなぁ・・・
と話すと、「あなたが日本に帰るときは私はもちろん、家中の人が泣くよ」
と言ってくれた。
イブも、「日本は遠いし、航空費も高い。だから、一度帰ったらもう二度と会えないかもしれないからね。」とちょっとしみじみ言われたときには、あらためて私は外国人であることを実感したのだった。
私たち日本人にとって海外旅行は普通にできることの一つだが、この国の人たちにとっては、夢のようなというと大げさだが、普通にはできないことなのだなぁと感じた。
だからこそ、外国人である私が何年もここに住むということは、現地の人の驚きの対象になるのだろう。
 まだまだ来たばかりと思っていた私だが、ちょっとだけ帰国の時の自分を想像してみた。
どんな気持ちで日本に帰るのだろうか・・・・
その日が楽しみだ。

結婚式前夜


  
                記11月3日(月)
家に帰ると、今晩はACARAがあるという。
なかなか行事を事前に察知することができず、いつも突然の行事参加で慣れないのだが・・・
夜も7時過ぎに出かけ、Bapakの実家へ。
 行ってみると、姪っ子の結婚式前夜ということだった。
この行事はMalam Korong Tigiという。(うまく日本語に訳せない・・・)
この地方の結婚式では、結婚式前夜は、各家庭(新郎・新婦の家)で親族が招かれ、儀式が行われる。
部屋はすでに結婚式用に飾られてあり、きれいな敷物の上に新婦が座っている。
まだ18歳で、高校を卒業したばかりという彼女はとてもかわいかった。
タカラールの結婚衣装を着ており、化粧もばっちり。
集まる人々の服装も、結婚式とはまた違った衣装を着ている。
家族・親戚が一人ずつ新婦の前に寄り、新婦の手のひらに粉のようなものを載せ、何か口ずさみながら別れを惜しんでいる。
一対一での別れのようだ。男の人から順に、関係の深そうな人からその儀式は行われた。
女の人の番では、目に涙を浮かべている人も多かった。
肉親関係の強い土地だから、両親以外でもこの子をかわいがった人が沢山いたのだろう。
沢山の人が泣いていた。
儀式が終わると、年配の男の人たちが輪になって歌を歌い始めた。厳密には歌なのか、文章を読み上げているのか分からなかったが、きっと新婦が無事に嫁ぐようにというはなむけの歌のようだった。
ここまでが終わると、みんなでご馳走を食べる。
昨日に引き続き2日連続でごちそうをいただいた。
今日もヤギの肉。めでたいときにはヤギの肉が出るのか?

Bapakの家のほうには今まであまり顔を出していなかったので、顔なじみの人が少なかった。
その分初めて赴任してきた時のような注目の的になる。
2年も赴任だということに驚かれ、独身だということでさらに。
これから結婚しても子どもは2人までしか産めないとか、早く結婚したほうがいいとか、何ならタカラールで探したらとか、やっぱり最初の話題はこれだ。
いつも通り一通りの話をすると、今度は子どもたちが集まってきた。
子どもたちに囲まれるのは、嬉しいものだ。
10人くらいの子どもたちと一緒に、カードゲームを行う。
ちょうど楽しくなってきた頃だったが、すでに時間は遅くなっていたので帰ることに。
特別な行事だからか?子どもたちは夜更けまで遊んでいいようだ。

ACARAを終えて帰ってきたのは9時半過ぎ。
宴は夜遅くまで続くようだったが、私とイブは翌日の仕事もあるので先に失礼してきた。
家の若夫婦と子どもたちは、泊まりで宴に参加。
だから家にはイブと二人きり。
イブはとても穏やかで優しい人なので、一緒にいてすごく楽だ。
二人でのんびりして、静かな夜を過ごした。

日本からの便り


やっと届きました!
1ヶ月以上を経て、届いた手紙たち。
1つはKさんが、バリから送ってくれた小包。
1つは団長が、東京から送ってくれた手紙。
どちらも9月末に発送してくれたもの。
ここから日本に普通郵便で送っても、15日くらいで絵葉書は届いたようだから、その位かと思っていたのに、いつまでたっても届かないので心配していたのだ。
普通バリからは4・5日で届くそうだ。
なぜか1ヶ月以上かかった。
それも、郵便局に何度も問い合わせたのだが、ないと言われ続けていた。
あきらめかけたとき、家に他の郵便が届いたので、ホームスティ先のイブが配達員に確認してくれたところ、別の家に届けたとの事。
 イブがすぐに教えてくれたので、早速その家に行って小包が届いていないかを聞いてみることに。
聞くと、これ?と差し出されたものは、すでに封は切られていて、梱包は解かれ中身も出されたものだった・・
・自分宛のものではないと分かっていて、封を切ってしまうなんて!おそるべし!
小包の中身は日本の本が数冊入っていたので、使えないと思ったのかそのまま放置していたようだ。私が住んでいるのを知ってはいる近所の家だったが、直接話したことのない人だったので、届けてくれなかったのだろうか?
 そして、東京からの手紙もなぜか翌日に無事到着。
日にちはかかりすぎているが、無事に着いたのだからまあよかった。
きっと、配達員にイブが話してくれたからだろう。
私が何度も郵便局に行って話したけれど、見つかる気配なしだったのに。
やはり地元民の力は強いのか?
いずれにしても、首をながーくして待っていた郵便が無事に着いて、ほっと一安心。
嬉しい便りだった。

ここまでの郵便物の確実な到着方法としては手紙など。
1. JICAJAKARTA事務所宛に送ってもらう
この場合、JAKARTA事務所から転送されてこちらに送られてくる。日数はかかるが確実
2. 直接タカr-ルの自宅に送ってもらう。
   今回のようなことも予想されるが、なんとか到着するようだ。

小包
1.EMSで送ってもらうなら、タカラールの自宅宛で大丈夫。KOICAの子の荷物も届いていたので!この場合はメールでEMSの番号を送ってもらうとさらに安心!

郵便事情は、確かに良くはない。先輩隊員に聞いても、手紙は届かないことも多いとか。
だからこそ、運よく届いた手紙は嬉しいものだ!
手紙一通に心躍るのも、嬉しい感覚だった。

子どもの誕生祝

   記11月2日(日)
男の子の誕生には、ヤギ2匹、女の子の誕生にはヤギ1匹を絞め、近所のみんなにふるまう。
女の子が生まれたら、両耳にピアスを開ける。

今日は赤ちゃんに名前を与える日で、親戚を呼んでお祝い。
上司の親戚の子のお祝いに招かれた。
まだ生まれて20日とのこと。男の子だ。
ここでは子どもが生まれてから入院というのはしないので、病院で出産後は1泊して家に帰ってくるようだ。
赤ちゃんは本当に小さい。(未熟児2000Gちょっとで未熟児に近いようだが、ここでは普通らしい)

 料理はヤギ肉と牛肉が中心。
肉は普通PESTA(パーティー)やACARA(お祝い事?)しか食べないので、みんなおいしそうにおなかいっぱい食べている。
残念ながら私は両方とも苦手なので、食べる様子だけみせたがあまり食べなかった。
普段は質素な食事も、こういう催しの時には豪華になる。
だから、みんな行事を楽しみにしているのだ。

家の庭には大きなスピーカーとカラオケセットが用意され、賑やか。
カラオケでは、日本の歌を歌えと迫られる。
この国の人は、みんなカラオケ好きだ。
私はあまり好きではないのでうまくかわしたが、いつまでかわせるかは自信がない。
それくらい、ACARAやPESTAとカラオケはセットなのだ。
 近所中に響く大音響でカラオケが延々と続く。
めでたいことなので、みんなが一様に喜んでいる。
賑やかで楽しい時間だ。

新築の家


    記11月1日(土)
 同僚の韓国人が一人暮らしをするため、仕事もそこそこに引越し準備を毎日のように手伝っている。
私の上司の新築の家を借りることになっているので、買い物には毎回上司夫婦が連れて行ってくれている。
週末は一人暮らしの為のグッズを買いにマカッサルに行き(これで3度目)、いろいろなものを買ってきた。
ベッド・エアコン・洗濯機・TV・・インターネット回線など何から何まで全てを揃えたいという彼女の希望は、母国同様の暮らしを望んでおり、ビックリ!
この国の国家公務員の2年分以上の給料を使って、生活用品を買い揃えた。
店の人も驚く買い物ぶりだ。
同じ外国人としてはちょっと戸惑ってしまう。
上司が貸す予定の家は、分譲住宅を買ったばかりだったようだったが、彼女が借りたいということで急いで門のブロックを積み上げたり、電気を引いたりしている。
買ったばかりの家は、家だけは立っているが、その区画を囲う壁や庭周辺などは入居間際に工事するらしく、まだやっていない家が多い。
わりと値段もはるようで、国家公務員の上司の給料で2年分くらいの金額がかかるそうだ。
上司はお金持ちらしく、難なく準備を進めているが2年貸しても元はとれないくらいで、本当に気前が良い人だからこそ貸してくれるという感じだ。
あと数日で入居の予定だが、職人のペースは相変わらずで完成までにあと1ヶ月はかかるのではないかという感じ。1週間前に見に来たときと、さほど仕事は進んでいないように見える。
本当に住めるのだろうか?彼女との最近の話題はこれである。

赴任後3ヶ月無事終了!

  記11月1日(土)
 タカラール県に赴任して今日でちょうど3ヶ月、インドネシアに来て約4ヶ月が経つ。
この1ヶ月はけっこうあっという間だった。
生活にもすっかり慣れ、人にも慣れ、快適なホームスティ生活を過ごしている。
仕事面に関してはまだまだといったところだが。
でも現地の人とは楽しんで生活ができているので、その点では良かった!
少しずつ交友関係を広めていきたいなというのが、これからの目標の一つだ。
季節の変わり目で、2回目の風邪をひいたがそれ以外は健康に暮らしている。
病気になったらアウトだと思い、日本に居た時よりより慎重に暮らしている。
日本はもう秋も深まった頃だろう。
インドネシアは相変わらず暑い!

2008年11月1日土曜日

仕事の仕方

海外で仕事を行うにあたって、日本との仕事の仕方の違いに戸惑うことが多いと訓練所でレクチャーされてきた。
 ちょうど赴任後3ヶ月になるが、今ではすっかりこの生活に慣れすぎてしまった。私の場合、以前中国人と仕事をしていたことも幸いして、外国人の仕事のやり方には慣れているから、初めてで驚いたり戸惑うということよりも、やっぱりここも同じだな。と感じることのほうが多く、卒なく対応しているといった感じ。
こう考えると、日本のほうがよほど特殊な、勤勉な働き方をしているように感じてしまう。とはいえ、私は日本人だから、日本人としての仕事のスタイルを変えるつもりはないが。
 中国人と仕事をしていた時と同様、時間や約束に対しての概念は日本と異なっている。日本人が生真面目すぎるのかもしれないと、感じてしまうほど。
よくいえばおおらか、悪く言えばおおざっぱなのだ。何事も。
だから、これらにいちいち違和感を感じない私は、以前出会った中国人のおかげだと感じている。
中国人もインドネシア人も、個人個人はとても暖かい。友人に対しては、とことん面倒を見てくれるし、困っているとすぐに助けてくれる。
だから、今の生活でもほとんど困ることがなく、いつも誰かが助けてくれる状況で楽しく毎日を過ごすことができている。
 その反面、仕事の仕方としてはのんびりムード。
だから、こちらが焦るような場面でははがゆくも思うのだろう。
まだ私はそういう場面に出くわしていないが、いずれはそういう時もあると思う。
だから、余計な亀裂を生まないためにも、こちら側が周到に用意して提示する必要もあるのだと思う。
 
 今は完全に現地のペースに合わせている。
でも少しずつ、日本人としての仕事の仕方を魅せていくつもりだ。
2年後には、日本人と仕事をしたらこんな風に変わったんだよね!と同僚に感じてもらえるように、少しずつ種をまくつもりだ。
あせらずいそがず、じっくり活動をしていこう。

子どもたちと共に!

記10月29日(水)
昼休みの帰り道、学校帰りの中学生にあった。
ここでは中学生もお昼には学校が終わる。
今まで気づかなかったが、家の向かい(教育局の隣)に何かの施設がありどうやらそこが中学生の自転車置き場?になっているようだ。
というのは、私の家は大通りから歩いて3分というところなのだが、中学生はその施設までは自転車で来て、そこに自転車を停め大通りからペテペテに乗って通学しているらしい。
ここから家までは自転車で20分以上かかるところも多く、家の前の空き地でちょっと涼み休憩してから帰っているそうで、涼んでいるところに私が通ったという感じ。
 前から私のことは知っていたようで、声をかけられたので少し話をしてみた。
外国人だとは思っていたようだが、韓国人だと思っていたようだ。
タカラールでは、韓国人の方がなじみがある。
日本人は先日帰国した隊員と、私だけだからだ。
日本人だというと、おー!となぜか歓声があがった。
夕方には広場でサッカーをやっているという。
夕方遊びに行くから入れて!と話して別れた。

 夕方広場に行ってみたのだが、昼に会った子には出会えなかった。
いくつかのグループがサッカーをしていたので、今度入れてもらおうと思っている。
帰りに同僚の家によって、小学生を紹介してもらった。
今度マカッサル語を教えてもらうことになった。
 その帰り道、またまた子どもたちに出会う。
女の子3人組だ。
柔道着を着ていたので、声をかけたところ中学校で講座が開かれているそう。
日本のように部活動はないので、塾のような形で夕方いくつかの講座が開かれている。
その一つに柔道があるらしいのだ。
私が日本人だといったら、日本語を教えてもらいたい!と目を輝かせて言うので、つい嬉しくなってしまった。
今度の練習日には、行く前に私を迎えに来てくれるそう。
やっと、子どもたちに出会えた!!

今日はたくさんの子どもたちに会えて、大収穫!
夕方の散歩も楽しみになった!

UPACARA SUMPAH PEMUDA


記10月28日(火)
 青年の誓いの日とでも訳すのだろうか?
今日はその式典が県庁であった。
朝7時に集合。
各国家公務員及び選ばれた各小・中・高校が1校ずつ参加していた。
ここで興味深かったことは、インドネシアの民族衣装を見られたことだ。
各中学校・高校から選ばれた代表男女各1名がさまざまな衣装をまとっていた。
多彩できらびやかなものばかりで、見ていておもしろかった。
同僚がどの民族の衣装なのか説明してくれたのだが、沢山ありすぎて覚えきらなかった。
だが、同僚の計らいで全ての写真を撮ることが出来た。
同じインドネシアとはいえ、服装も全く違い特徴のあるもので面白かった。
説明を聞くに、独立記念日と共に、毎年この日は青年たちが独立を祝い、インドネシア人としての自分たちを誇る日だそうだ。
毎年やるというから、来年も楽しみな式典だ。
 この式典の最後には、校庭いっぱいに小学生が並び日本のラジオ体操のインドネシア版?のようなものをやっていた。けっこう長い体操だったが、子どもたちも良く覚えていて良く動いていた。
説明によると、健康になるために国で推進している体操だということ。今まで見たことはなかったが、各学校でよくこの体操をしているらしい。
 いろいろと式典があり、面白い文化だ。

スラウェシでソフトボール!

記10月26日(日)
 JICAの隊員や専門家、日本人会の人たちと、ソフトボールをすることになった。
去年のシーズンオフ以来、訓練生活に入ってしまったこともありやる機会がなかったのだが、やっと機会に恵まれた。
 
 インドネシアはとても暑いので、朝8時頃から始まり、午前中のみの活動。
練習もそこそこに、早速試合を行う。
インドネシアに来て、初めての運動らしい運動だ。
こんなに体を動かしたのは久しぶり。いい汗をかいた。
久しぶりに投げた。今まで使っていない筋肉が総動員されたような感じ。
日を置かずに筋肉痛で動けなくなりそう・・・
楽しくやろうという主旨の試合だったのに、やっぱり勝気な性格が先にたち、いつの間にか真剣になってしまった・・・!
楽しかった!やっぱり運動はいいな。
今度の練習のために、少し自主トレしようかな?と一瞬思ったりして。(思うだけ)


インドネシア人にソフトボールを広められたらいいなと思い、自分のグローブを持参したまでは良かったが、この島では野球・ソフトボールともにやる習慣はないようだ。
隣の体育課の同僚に聞くに、野球はグローブやバット、いろいろと道具が必要なので出来ないとの事。特にグローブは高いのでみんなやらないとの事だった。
でも、帰国するまでには何かやってみたいと思っている。

次回の練習が楽しみだ!

2008年10月26日日曜日

最近の私

タカラールでの生活が慣れた分、都会のマカッサルに行く機会がめっきり減った。
そのため、このブログ更新もかなり時間が空いてしまっている。
ネットカフェでまとめて更新しているのだが、今月は月初めにしかきていなかったので、ほぼ1ヶ月インターネットをしていない。
 ずい分と時間が空いてしまった。
でも、日々の出来事はこうして書き貯めているので、楽しみにみていてくれる人には心配をかけるかもしれないけれど、更新は続けるので今後ものぞいてみてくださいね!

活動見学



   記10月23日(木)
 2日前から、風邪をひいてしまった。日本にいたときからよく風邪はひいたけれども、熱が上がらずのどが痛いという症状は初めてだったので、葛*湯で治そうと早くから飲み始めたが、薬がなかなか効かずにずるずるしている。
昨日がピークで、今日は行けないかと心配していたが、復活!
 のどと鼻をやられていて、味覚と嗅覚はほとんどないが、体がだるいということはないので、仕事はいつも通り。
 今日はお昼からJenepontoの先輩隊員の活動を見させてもらうことに!
一人で行くというと、案の定同僚のみんなから心配され、携帯は電源を切らずに持っていなさいとか、夕方4時には向こうを出発してきなさいとか、友達の家が見つからなかったら、そのまま帰ってきてしまいなさいとか、いろいろとアドバイスをもらった。
その位、女性が一人で遠出することは普通のことではないんだなぁと、分かる。
日本のように安全ではないということだ。

 初めてスラウェシでpantel(乗り合い自動車)に乗る。
8人乗りに12人くらい乗るから、かなり窮屈だ。
その上運転手がかなり飛ばす。100K以上を出すこともしばしば。
助手席に女性2人で乗らされたのだが、ひやっとする場面もあり。
気をつけなくてはと思う。
乗らないわけにはいかないが、今後は乗る位置や運転手の様子などに注意をしなければいけない。
初めてのPANTELは、何とか無事に目的地までたどり着いた。

私の職種は青少年活動だが、実際の活動は青少年相手より、主婦を相手にすることの方が多い。
活動内容も、そのおば様たちの集団をマネジメントするというような感じで、村落開発の職種の人の活動に近い。
そこで、今日は村落開発で村に入っている先輩隊員の活動を見せてもらいに来たのだ。
月に1回集まっているらしく、そこには12・3人の主婦がいて、市場で販売できそうなものを作る講座を開いていた。



今回はとうもろこしを使ってお菓子づくり。
講座は和やかな雰囲気で、参加者がとても楽しそうだったのが印象的だった。
この講座を始めた頃はこんな雰囲気ではなかったと聞かされ、彼女が村に入ったことでいい影響を及ぼしているんだなぁということがよく伝わってきた。
 この村でも、歩いていると子どもたちに出会い、彼女の名前を呼ぶ姿が目についた。
村になじんで活動している様子が伝わってくる。
こういうのって、いいなぁ。
と感じた。
私もタカラールの人たちに名前と顔を覚えてもらえるように、コツコツと活動を続けたいなぁと感じた。
とても刺激になった一日だった。
よかった!

夕方の散歩

 ほとんど午後は家から出ないのだが、それではいけないと思ってたまには自転車でぐるぐる。
同僚の家を探して自転車を走らせる。
なかなか見つからずにあきらめて家に帰ろうとすると、いた!

 お菓子を食べながら、話をする。
彼女はPKBMを経営していて、この間のレンガ造り(記10月16日)の企画者でもある。
一対一で話が出来る初めてのチャンスだった。
彼女のほうから、JICAの活動や、私の仕事の仕方について質問があった。
彼女も仕事に対しては真剣で、自分なりにやりたいこともあるようだった。
一つずつゆっくり話をしていくと、彼女も私の仕事を理解してくれたようだった。
私の出来ることや、やりたいことなども話し、意気投合した。
憂うことは同じで、なんとかしたいという気持ちは同じだということが分かった。
ただ、現状は分かっていてもそれを打開するいい方法が見つからないのだといっていた。
私も同じだ。日本と比べてしまうのはどうかと思う反面、日本ならこうするだろうというのが私の中にはある。
ただ、それがここで通用するか?現地の人たちに本当に必要なのか?
という点については、まだ計れないでいる。
だからまだ、具体的に動き出していないという面がある。
とりあえずやってみるというのも一つの方法かとは思うが、だからといってやみくもにやって自分の考えを押し付けるようになってしまっては、きっと続かないと思う。
だからこそ慎重に、時期を見計らって行いたいのだ。
 そういう点を理解してくれ、協力してくれそうな人が見つかったことは一つの励みになる。
かといって、全てを理解してもらえたわけではないが、私の目指す方向を話せたことは大きい。
きっと話好きの人たちだから、私の話が同僚たちに伝わり、正しく自分の活動を理解してもらえる日がくるかもしれないという期待を、わずかながら持つことが出来た。
少しずつだが、こうやって理解者を増やしていくことが大事なんだなぁと、感じた。

会議

   記10月21日(火)
2週間前から、韓国人と共に働いている。KOI*Aという団体で、日本のJICAと同様のシステムでボランティアを派遣している。
タカラール県には、JOCV(日本青年海外協力隊)よりKOI*Aのほうが先に入っていて、もう3代続いてボランティアを派遣している。
だから、彼女が来たときにはすでに受け入れの準備も万全で、活動に対しても概要を理解しているから、現地の人たちも分かりやすかったようだ。代々幼稚園教諭が派遣されており、主に幼稚園の先生を対象に講習会を開いたりするのが活動内容だそうだ。
ただし、厄介なのはかなりの物的支援をしているということ。小学校を立て直したり、幼稚園に机やいす、道具など、かなり多くのものを援助している。
そういう訳で以前にも書いたように、JICAにも物的支援を期待されてしまう。
今日は彼女の紹介のための会議が開かれ、市の幼稚園の園長や、PKBMの教員など代表が40人位集まった。
私はこのような会議は開いてもらってはいないが、すでにみんなと面識があるのでこの会議には参加しないつもりでいたのだが、今朝方上司に突然参加するように言われ、その上、私まで自己紹介をすることになってしまったのだ。
私の場合はついでのようなものだが、それでも人前で話をするというのは言葉も拙い分、すごく緊張した。ただ、この機会をもらえたことで、私の活動内容をはっきりと伝えることができ、物的支援はできないというようなことも話ができたので、少しすっきりしている。
 私の所属する学校外教育課では幼稚園は担当していないのだが、主任にあたる女性(上司の奥さん)が幼稚園の園長を兼任しているということがあり、ずい分と彼女に肩入れしていて、かなり具体的にプログラムの企画などのアドバイスを行っている。
だから、なぜか韓国の彼女は毎日私の隣の席に座っている。
本当の所属は、学校教育幼稚園・小学校課で、私とは部署が違うと聞いていたのだが、実際はほとんどこの主任が関わっていて、今回の会議も主任が人を集め、開くに至ったようだ。
 私にもその位いろいろと手を貸してくれるなら心強いのだけれど、私の活動には興味がないらしく、かなりほうっておかれている。
赴任してわずかの間にすぐ活動できる段取りをうってもらえる彼女を、少しだけうらやましく思ったが仕方がない。これが初代と何代目かの差なのだろう。
私がどう活動したかで、私に続く後輩隊員の居心地が少し変わってくるのだろうと思っている。
私は私のペースで、焦らずコツコツやるしかない。
活動においては、常に韓国と日本のボランティアということでお互いが引き合いに出されることが今までも多かったし、これからも沢山ありそうで面倒に感じている部分もあるが、彼女自体は新卒で若くごく普通の人なので、外国人同士、仲良くやっていけたらといいなと思っている。

郷土料理




    記10月19日(日)
金曜から、イブの息子さん夫婦と子ども、姑さんが来ている。
肝心の息子さんは仕事の都合で来られなかったそうだが、イブにとっては久しぶりの孫(4歳の男の子)との再会に、嬉しそうだった。
息子さんたちは中部スラウェシに住んでいて、飛行機で1時間かけてマカッサルへ→ペテペテでタカラールに来るそうだ。
だから、そうそういつも来られるわけではない。

土曜も仕事だったので、疲れたせいかちょっと体調がよくなくて朝寝坊をしてから起床。家では毎朝5時半頃から起きてみんなが活動を開始するのだが、私だけ9時まで寝ていた。
起きるとみんなすでに親戚の家に行く支度をしていて、私は後から自転車で行くことに。
親戚の家に大移動して、約30人が集まりにぎやか。
私がついた頃にはすでに郷土料理なるものを作っていた。
早速私も手伝うことにする。
雰囲気は、冷や汁のような感じ。
ただし、ここではゴマの代わりにピーナッツやカシューナッツを使い、焼き魚をすったもの、野菜、それからSaguというくずのような食感のものを玉にして入れる。
冷や汁とちがって、汁は熱い。でも、味はおいしかった!
おなかいっぱい食べて、昼寝をして、また食べて。
こうやって、休日はずっと食べ通しだ。
だから、余計おなかの調子が悪くなるのだが。
でもこの料理はおいしかったので、かなり食べてしまった!
それから、この家にはマンゴーの木があるので、私が行くと必ずマンゴーを食べさせてもらえる。ここで食べるマンゴーは、本当に甘くておいしいのだ。
おなかいっぱいの休日だ。

写真 タカラール生活 013 (SAGUの写真)

巡回だったはずが・・・

    記10月18日(土)
本来は休日だったが、担当者の誘いがあって巡回に行くことになった。
KF(識字教室)を見せてもらえるということだったのだが・・・
前回、この地域は幼稚園しか巡回させてもらえず、KFは見られなかったのだ。
今日はKFに行けるということで、休日出勤したようなものだったが、やはり今日連れて行かれたところも全て幼稚園だった。
以前ブログで紹介したように、(記9月10日)この担当者の同行は、意にそわないことなどを話されてしまうのであまり気がすすまないのだが、今回もそうだった。
今日一番メインだったのは、私設幼稚園の保護者説明会?のような場で、この担当者が話をする必要があったらしく、そこに連れて行かれたのだった。いろいろと複雑な話だったが、要はこの幼稚園には補助がなくて、建物も先生も不足しているという話。
そこで、私に話を振られて、日本の援助がうんぬんという話になった。
寝耳に水?のような話で、今回は本当に困った。
うまく返事もできなかったので、質問自体が分からないようなふりをして、ごまかしてしまった。どうしてこんな話を、何の前触れもなく突然するのだろうと、不愉快になったが、仕方がない。
前回も同じような思いをしたのにも関わらず、またついてきてしまったから。
悔しいが、仕方がない。返そうにもまだ私の語学力では返せない。
表情で伝えるしかないと思って、大いに困った顔をしてみせた。
保護者をうまく言いくるめている様子は、本当に見ていて不愉快だった。
こんな担当者もいるんだから、気をつけなければいけないと肝に銘じた。
でも、この地域も貧困地域の上、県からの補助もあまりない地域だから、本当は何かできればと思っているのだが。

ただ、この担当者の考え方ややり方に、自分はついていけないと思う。
なんだかやりきれない思いで、その場を去ってきた。
村の人は、どう思っただろうか・・・?そのことだけが、気がかりだった。

隣の県へGO!





    記10月17日(金)
いつもどおり普通にKANTOR(事務所)で仕事をしていると、昼頃になってPKBMの担当者が集まってきた。
これから隣の県(Jeneponto―ジェネポント)で会議があるという。
担当者の一人が一緒に行く?と誘ってくれたので、すかさず行くと返事をし、同行させてもらうことに!
この県には、すでに4人の隊員がおり、そのうち2人は同期隊員だ。



行ってみたいとは思っていたけれど、すごく遠いから行かないほうがいい・・・というようなことを家のものから言われていて、なかなか気軽に遊びに行くというわけにはいかなかったので、またとないよいチャンスだ。
(現地の人はあまり遠出をしないようで、1時間以上かかるところはすごく遠いというイメージがあって、必要以上に出かけないようだ)
確かに車に乗って、2時間弱かかり、車はクーラーが効かず、8人がギュウギュウ詰めになって行くのだから、遠いし暑いし・・・という感じで、遠出したくない気持ちも分かる気がする。
私の場合は、初めて行く所だったのですごくウキウキしていたが。
マカッサルとは反対方向の県境となり、タカラールの端を横切って行く。
タカラールから国道?のような大きな道一本を、どこまでも進んでいくとジェネポント。
田んぼや畑、塩を生産している田んぼ?馬(ここは馬で有名。いたるところにいるそうな。)など、自然がたっぷり。
ジェネポントに着いてからがまた大変。会議場所が分からない。
町を行ったりきたり30分くらいぐるぐる。
車の中で、それぞれが知っていそうな人に電話で確認するのだが、みんなそれぞれで結局どこに行ったらいいのか分からず、混乱。
やっとの思いでついたのは、県の教育局だった。
ここは、同期隊員の勤務先。
到着するとすでに会議は始まっており、同期の隊員も一緒にしっかり働いていた!
会議の内容は、PKBMのあり方について。
だが、ほとんど無駄話をあちこちでしていて、あまりよく聞き取れなかった。
説明もやたら長く、一人で1.5時間くらいはなしていたような。
ほとんどの人が飽きてしまっている。
でも、いくつか会議を見ていて気づいたことだが、話している人は、聞き手のことはほとんどお構いなしで、演説するように雄弁に語る。
今回だけではなく、どんな会議や集会でも、そんな様子が見られる。
だから、すごく時間が長い。
ただ座って聞いているだけでも、すごく疲れてしまう。
 
とはいえ、参加したことでPKBMの経営の仕方や状況が少し分かったので、勉強になった。



私の県のPKBMの状況も分かり、経営者に当たる人の状況も少し分かったので良かったと思う。
それから、同期に会えたことも良かった!

帰りにちょっと同期の家に寄らせてもらったのだが、事務所から家までの帰り道、この通りには子どもが多く、沢山の子とすれ違った。興味深そうに私たちを見ながら通り過ぎていく。
また。所々で彼女を呼ぶ声がした。小学校高学年から中学生くらいの子が、かわるがわる名を呼ぶ。聞いてみると、日本語やサッカーを一緒にやっている子達ということだ。
小学生の男の子が、こっちに寄ってきて、私の名前を聞きに来てくれた。
何度も私の名前を口ずさみながら帰っていく。
 なんだか、自分の思い描いていた隊員生活だった。
こんな風に、歩いていると子どもたちに声をかけてもらえるって、嬉しい。
残念ながら私の場合、まだ赴任地ではそういう環境ではない。
子どもたちの集まる場所を探しているのだが、どこにいるのか見当たらないのだ。
 だから、こんな風に彼女が教えた日本語で、挨拶をしてくれる子どもたちに出会えて、本当に嬉しかった。彼女の活動が伺えたことも。

 帰りは、真っ暗の道をハイスピードで帰ってきた。
田んぼだらけで集落のないところでは、たくさんの星たちに出会った。
インドネシアに来てから、初めて星を見た。
キャンプ場から見た星のように、真っ暗の中で輝いている。
なんだかすごく贅沢な時間を過ごした。

2008年10月25日土曜日

PKBMでの新講座開催集会


 記10月16日(木)
学校外教育課課長と一緒に集会へ参加。
2つの市のPKBMで、新講座が開催された。
ひとつは唐辛子農園、もう一つはレンガ造りだ。
各講座に30人くらいの人が集まっていた。男女、年齢などはさまざま。
レンガ造りのほうは、男性の参加率が高かった。
講座を提供する団体があるのか?この2箇所とも、同じ団体の協力を受けている。
今日はそれぞれ開催の挨拶だけで終わってしまったので、どんな風に訓練が進んでいくのかはまだ分からない。
この2箇所とも、担当者がわりあい私に好意的な人達なので、今後実際の訓練の様子を巡回させてもらおうと思っている。
こんな風に、新講座が開催されることが分かり、講座の雰囲気が少しずつ分かってきた。
実際、私からもこのような新講座の提供を望まれている。
そもそもの要請内容とは全く違うのだが、少し考えただけでも、この国で稼ぐことのできるスキルを与えるなんて、すごく難しいテーマだ。
まだこの県のことも良く分かっていないので、何が適しているのかもわからない。
なかなか赴任地の要求と、自分のできることの折り合いをつけるのは難しいなぁと思う。

だから、自分にいいきかせる。
ゆっくりじっくり、焦らずに活動していこう!

うれしい便り

   記10月15日(水)
 同期隊員で、アフリカに派遣となった友人から絵葉書が送られてきた。
(JICA JAKARTAOFFICEを経由してきたので無事に届いたようだ)
彼女は訓練所生活中同じ生活班で、とても仲の良かった人だ。
多少苦労しているようなことも書いてあったが、彼女のことだから多分大丈夫だろう。
アジアに住む私より、きっと刺激的な生活を送っているだろう。

言葉が自由に使えないということの不便さを、感じている。
言いたいことがうまくいえないもどかしさ。
自分の気持ちに気づいてもらえないことの悲しさ。
口ごもってしまうことが多く、つい自分の世界に閉じこもってしまう。
だから、言葉の洪水から逃げるように、日本の本やDVDばかり見て過ごしてしまう。

 最近こんなことばかり思っていたから、この絵葉書に励まされた。
遠い空の下で、今も彼女はがんばってるんだろうなぁ・・・と思うと、自分も負けてはいられないという気持ちになる。
今できることを少しずつやっていくしかない!

世界 石けんで手をあらう日?


     記10月15日
10月15日は、石けんで手を洗おう!とTVの宣伝にあったので、そんな日があるんだなぁ・・・インドネシアだけなのかなぁ?
なんて思っていたら、事務所で仕事をしていると上司に県庁につれていかれた。
健康のためのイベントだと言われ、行ってみると・・・
UNI**F主催のイベントで、小学生に正しい手の洗い方をレクチャーするというイベント。

南スラウェシ州では、タカラール県ともう一つの県しかやらないイベントだということだ。
県内の幼児・小学生が集まり、炎天下の中で手を洗う。(手洗い競争と呼ばれていた)
写真は始まる前の様子。
きちんと子どもたちが並び、洗面器と石けん、手拭タオルが用意されている。
だが、実はこのまま約2時間子どもたちは炎天下の中を待たされる。
集会所でレセプションが行われているからだ。
この間に、子どもたちは粘土で自由に遊ぶわけだが、この時点で広場はすごいことになっている。足元は水でぐちゃぐちゃになり、着ているUNI**F提供のTシャツは泥だらけ。
いつ始まるのかと、みんな首を長くして待っているのだが。
レセプションが終わり、手の洗い方の説明をする頃には、子どもたちは皆飽きてしまって説明を聞かずに勝手に手を洗っている。それもかなりいい加減な洗い方だ。
せっかく多くの子どもたちを啓蒙できるチャンスなのに、なんだか残念に感じたのは、見ていた私だけだっただろうか?
結局このイベントは成功なのかどうか、日本人の私の目から見るとかなり微妙だった。
でも、お祭り好きの現地の人たちにとっては、にぎやかで良かった!
大成功!という感じ。
使ったタオル・石けん・洗面器は各学校に持ち帰ってよいらしく奪い合いになっていた。
参加者には簡単なお茶菓子が配られ、そのうえ手洗い競争に参加した学校には景品もつくらしい。この物を目当てに参加をしていたのかもしれない。

これまでいくつかの行事に参加したが、どれも大人の目線で行われている様子。
今回の子どもを中心としたようなイベントでさえ、大人の都合が優先されている。
日本なら、炎天下の中子どもを2時間以上も外で待たせるなんてありえないだろう。
健康に配慮しなさすぎだ!と言いたくなるところだが、この国ではこうやって子どもが大きくなるのは当たり前のことなのかも知れず。
もっと配慮できることはあるはずなのだが、できないのかしないのか、その辺はこの国のやり方をまだ理解していない私には計ることができないでいる。

ホストファミリー紹介①



一緒に住んでいる子どもR君。
この夏に小学校に入学。(インドネシアでは8月から新年度)
アルファベットが間違いなく読めるようになったら、自転車を買ってもらえるということで、毎晩私の家庭教師つきで勉強。

私のインドネシアで初めての生徒だ。
写真は、やっと買ってもらえた自転車に乗って、記念写真の様子。
陽気だが人見知りもかなりするので、仲良くなるのに時間がかかったが、やっと最近距離が縮まった感じ。
日本語の吸収もよく、私が思わず口にする日本語をよく覚えている。
ちなみに私の口癖は・・・
「はい!」
「なんだっけ?」
「ちょっとまって!」
だそう。今では、R君がよく使っている。
だから、すこしずつ日本語が通じてきているのだ!!
でも、未だにLとRの発音ができない私を、時々笑っているのも彼だ。

巡回 刑務所へ


    記10月9日
事務所で事務仕事をしていると、またもや突然の迎えがやってきた。
急遽、巡回することに。
急な迎えは困ることもあるけど、事務所でじっとしているよりはましだ。
事前に約束を取り付けられるのが一番良いのだが、私の為に車を準備するのに苦労しているようで、車の用意ができると迎えに来てくれる感じ。
今日は同行者のだんなさんの運転で、巡回。
どこにいくのかと思っていると・・・
単語が聞きなれないものだったので、説明されたが分からぬまま現地へ。
大きな扉でがっちりと閉められ、外から扉をノックするといかめしい感じの人たちが数人出てきた。あらら。
中に入ると、「何の用だ!」みたいなことを言われて、ちょっとここはどこなの?
と思っていると、なんと刑務所だったのだ。
刑務所内にあるPKBMへの訪問だった。
敷地内はきれいで、日本のTVでみるような高い塀や閉ざされた感じはない。
オープンな感じで、集会所のようなところにみんなが集まってのんびりしている。
聞けば、面会も決められた時間であれば毎日自由にできるようだ。
日本のように、ガラス越に・・・というのではない。

PKBMはすでに引っ越したという。
でも、引っ越したことを県の担当者(同行者)が知らなかったなんて、不思議。
日本の組織体制にはありえないことだが、ここではこういうことはよくあるようだ。
同行者もびっくりしていたようだが、とりあえず部屋のみがありそこの見学だけ済ませた。
刑務所内での技術訓練もさまざま。
農業として野菜を作って販売したり、本棚などを作ったり、新聞紙を再利用して写真フレームを作成したりしているらしい。
日本より種類は少ないようだが、手に職をつけて更生させるという考え方は同じようだ。
刑務所の所長に挨拶をすると、日本大好きな人のようで話が尽きない。
日本好なインドネシア人は、意外と多くいる。
特にカラオケで日本の歌を歌うことは多いようで、どこへ行っても決まった歌を聴かされる。日本では一度も聴いたことがなかった歌だが、インドネシアでは大ヒットしたという歌だ。
この所長も例に洩れず、その歌が大好きだといって歌って聞かせてくれた。
人のよさそうな所長で、そのまま隣接する官舎に連れて行かれ家にも案内してもらった。
本当にこの地方は貧しいのかと疑ってしまうような、高級感漂う家だった。
上流階級の人の生活は、やはりすごい。

 と少し話はそれてしまったが、事前情報によると、このPKBMは実働していてよいとのことだったので、それがなくなってしまって残念。
引っ越した=どこかへいった?
のか、同行者に聞いても分からなかった。
今回は、PKBM訪問と言うよりも、刑務所訪問を楽しんでしまった感じだ。
職業訓練校でのプログラムの企画ができればいいとは思っているが、スキルも資材準備もちょっとできるわけではないので、難しそう。
何かいい知恵のある方は、教えてください!

ある夕方の空



夕方の空の色はいろいろ。
MUSIM HUJAN(雨季)が始まったから、雲の動きも今までと違っている。
日本の梅雨みたいかと思っていたが、1日2時間くらい強い雨が降って、後はからっと晴れている。
雨が降ると気温が下がるので、午後の一番暑い時間の雨が現地の人にとっては一番ありがたいようだ。
この時間のお昼寝は、涼しくて気持ちがいい。

TANA TORAJAへ!



記10月2日~5日
このラマダンの時期は1週間お休みなので、同期隊員は各地へと旅行していたが、不精な私は何の計画もなくのんびり。
 でも、せっかくの休み!どこかへ行かなくちゃ!という気持ちにもなり、同期隊員の計画した旅行に合流させてもらった!
行き先は、Tana Torajya(タナトラジャ)
ここまでの行き方は、マカッサルから長距離バスに乗る。8時間くらいの旅になる。
一人で夜発のバスに乗ることは危険だからしないが、今回は4人ということで夜発のバスに乗る。
夜10時発のバスに乗り、バスの中で仮眠をとりながら翌朝5時にRantepao(ランテパオ)に到着。
そこで1泊し、4日夜発のバスでマカッサルに帰ってきた。
トラジャは葬式が有名だ。
人が亡くなると、家中で葬式のためのお金を数年かけて準備し、(日本円で2、300万)そのお金が準備できると、葬式を行う。大体2~3年はかかるらしい。
観光2日間ともちょうど葬式が行われていたので、ガイドが連れて行ってくれた。ラッキーだ。
葬式は1週間くらい続くようだが、ちょうど行った日は水牛を殺す日だった。
全部で24頭。大きな水牛が、次々とたくましい青年によって絞められていく。
派手な儀式で、観光客女性は間近に見ることの出来ない人も多いようだが、さすがの私も途中でギブアップしてしまった。
 他にも見どころはたくさんあった。
墓の作り方も独特だし、人骨がむき出しのままあったりして、数百年前からこのままだったのかと思うと、遠い昔が想像されるようでけっこう面白かった。

ここに詳しくは書ききれないが、スラウェシにきたら見る価値あり!
だが、季節によってこの葬式祭は行わないようなので、その時期を事前に確かめる必要
があるようだ。
 とにかく、初めて行ったのだが偶然いい時期にぶつかり、この地の文化を見ることができてとても面白かった。
はじめての旅行は、同期隊員のおかげで楽しい時間となってよかった。
久々のリフレッシュ!

親戚まわり

   記10月1日
広場でのお祈りが終わると、そのまま家に帰る。
お祈りのベールの下には皆、この日のために新調した新しい服を着ている。
おとなも子どもも、みんな新しい服。
ラマダンは、新しい服で迎えるらしい。
家に着くと、ラマダンにはどの家でも食べるというご飯を食べ、すぐに親戚の家へ。
私の家から歩いて5分くらいのところにイブの弟さんの家がある。
この家には車があるので、どこにいくにもこの家の人と同行する。
まずはこの家のイブに挨拶をし、その後私の家のイブの実家へ。
イブの実家はここから車で20分くらいのところにある。
すでに何度か (PESTA BUKA PUASA②など)行っているので、親戚の人とももう顔なじみだ。
イブは10人兄弟だが、普段近辺に住んでいるのは5人くらい。
ラマダンは日本のお正月の雰囲気と似ていて、全国から帰省してくる。
イブの兄弟は、ジャワ島に居たり、スラウェシの北のほうにいたりするらしく、初めて会う人ばかりで誰が誰なのかは分からないまま終わってしまったが。
 とにかく、ここではラマダンのために作ったKUE(お菓子)を食べながら、久しぶりの対面を祝う。

 ここからが、すごかった!
車に乗せられて、親戚めぐり&墓めぐり。
4台の車と、5台のバイクが連なり向かう。(40人くらいの集団)
イスラム教では、火葬はしない。
そのためか、墓は日本のように一族のものがあるわけではなく、個人の墓が点在している。
だから、イブのだんなさんの墓やお姉さんの墓がずい分と離れたところにあり、その一つ一つを訪問してまわったのだ。5箇所以上まわった。
 その後、親戚の家を1件ずつまわる。
この40人の団体が大移動。
家では飲み物・お菓子・ご飯が振舞われ、みんな食べる食べる!
私は3件目ですでにギブアップしたが、現地の人たちの食欲には本当に驚かされる。
6件くらいまわっただろうか?
私は食べ過ぎて気持ち悪くなり、イブの実家で休憩。
その間にもさらに親戚周りは続けられたようだった。
イブの実家にもすでに50人以上の親戚が集合しているので、どこに行っても沢山の人と、沢山の食べ物で、酔ってしまうほど。
お菓子を食べ続けるのも厳しいものがある。
きっと日本に帰るまでには、一生分のクッキーを食べて帰るに違いない。
日本ではほとんどクッキーなど食べない私だが、ここでは毎日といっていいほど口にしている。

 この親戚まわりは夕方まで続けられ、夕暮れと共にやっと自宅へ。
疲れた!と部屋にこもりそのまま翌朝まで寝てしまった!
が、実はこの夜もまた、イブの友達や、亡くなっただんなさんの親戚が来たというから驚き。
すっかり疲れきった私は、居間が賑やかなのにも気づかないほど熟睡していたようだ。
日本同様、子どもたちにはお年玉?のようなものが親戚からもらえるようだ。
この晩7歳のRは、お年玉?を沢山もらったようで、大事そうに財布にしまったとのことだった。

RAMADHAN(ラマダン)


  記10月1日
朝5時におき、マンディーをして準備。
5時半には、イブとイブの娘のDDと一緒に広場へ。
以前独立記念の式典をやった広場だ。
大きな広場だが、そこに市内の人たちがどんどんと歩いてやってくる。
着いた者から、地面に敷物をしいて座る。
結構几帳面に前後左右を整列させ、丁寧に敷物を敷き座る様子が意外な感じがした。
国民性として、いつもどちらかと言えば何事にもおおらかな印象を受けている。
集会の整列などにしてもそうだ。まっすぐ並ぶということをあまりしない。
だが、ここではきれいに整列している。不思議だ。

ずい分沢山の人がいるんだねとイブと話していたが、この時点ではまだまだだったようだ。
イブの席は前のほうで、ずっとずっと後ろまで人の列は増えていく。
みるみるうちにどこまでも列が連なり、どれだけ増え続けるのかわからない。
6時半頃には、広場一面がお祈りの服装をまとった住民でうめつくされていた。
広場の前方には男性。後方に女性と子どもたちが並んでいる。
私のいるところからは、女性の姿しか見えない。
写真も沢山撮ってみたが、人の群れに圧巻と言う感じだ。
こんなに多くの人が集まり、何かをするというのは日本ではあるだろうか?
ちょっと考えてみたけど、思いつかなかった。
宗教って、本当にすごいんだなぁ・・・と感じた。
このあと、一斉にお祈り開始。
外国人の私と、小さな子どもたち以外は全員行っていた。
静寂な時間。
広場に沢山の人がいるとは思えないほどの静けさで、行われる。
これを見ている私の存在って、この場に居ていいのかためらわれるほどだった。
でも、貴重なシーンだったので、しっかり写真とビデオに収めてきた。
いつか日本のみんなに紹介できたらと思っている。
後日の新聞では、この広場には約5000人の人が集合したそうだ。
貴重な経験ができたと思っている。

2008年10月10日金曜日

ラマダン前日

  記9月30日
今日で、断食も終わり。
6時のプアサ明けを待って、やっと通常の生活にもどる。
ラマダンは、日本のお正月みたいなもの。
先週の土曜からは日本の年末のように、銀行も、店も全部が閉まっている。
もちろん、会社も今週1週間休みだ。
同期隊員は、この時期を利用して早速旅行に出かけたようだが、出遅れた私はマカッサルとタカラールをぐるぐる。
 のんびり過ごしていると、なにやら家が騒がしい。
日本で言えば、12月31日。
この日にすることといえば・・・
家の掃除?
家の中のカーテンを全て新しくし、ベッドカバーも新調された。
家中の掃除が始まって、私もなんとなくうろうろ。

めでたく夕方のブカプアサを告げるラジオが流れ、ここでプアサ終了。
これからはまた家族と一緒に、朝ごはん・昼ごはんが食べられそうだ。

お好み焼き!



先輩隊員の家に宿泊。
この隊員は、同郷の人。
故郷の話で時たま盛り上がる。
家の人が送ってくれたというおたふくソースと青のりと、マヨネーズつき。
味噌汁もインスタントではない本物!
大根とねぎの味噌汁!3ヶ月ぶりだ!
うますぎて、思わず顔がほころぶ。
日本の味がした!

インドネシアの学校制度

 学校の種類はさまざま。
おおまかなものだけ書いてみると・・・
プレイグループ 3歳~5歳くらいまで (ノンフォーマル)
TK(幼稚園) 4歳~6歳(フォーマル)
SD(小学校) 6年間(フォーマル)
SMP(中学校) 3年間(フォーマル)
SMU(高校) 3年間(フォーマル) 高校は実業高校もある。
そのほか、小学校から高校まで、宗教学校と呼ばれるものもある。

通常はフォーマルの学校に行くのだが、中退者のための施設がノンフォーマルのPKBM。
SDはPaketA、SMPはPaketB、SMUはPaketC、と、Paketの授業が各学校の授業に相当する。だから、このPKBMでPaketA~Cのそれぞれを学べば各学校を卒業したのと同様の卒業証明がもらえるのだ。
PKBMは、日本で言うところの職業訓練校にあたる。
だから、先に書いたPaketのほかに、裁縫(ミシン)、コンピューター、料理、バイクなどの修理、理髪、など手に職をつけるための講座も開講されている。
 このPKBMの質の向上が、私の仕事のひとつだ。

巡回その⑨


   記9月24日(水)
 最後の市へ。
時間が遅くなってしまったため、1箇所だけまわる。
KF(文盲の人たちが勉強している場所)へ。
写真の人たちは、もう2ヶ月勉強しているそう。
写真は高床式の家の2階の様子。
ノートに文字を書き、勉強しているところだ。
プアサ中だが、通常通り午後に授業をしているということだったので、実際の学習の様子を見学できた。

 さしあたり、これで全部の市を回った。
駆け足の所も多かったので、実態が見られたわけではないが、雰囲気は感じられた。
ブランプアサ(断食月)が終わったら、もう一度各地域を回らせてもらうことになっている。
こうやって巡回することで、本当の私の役割が見えてくるのではないかと思っている。
まだまだ、活動は始まったばかり。
アイディアはたくさんあるが、本当にタカラールの人たちにとって有益なものを提供していきたい。
そのためには、一日でも早くこの県の実態をつかまなければならないと思っている。
とはいえ、一気に飛び越してはいけないので、ゆっくりじっくり地域の人と関わりながら活動を進めていく自分のスタイルは崩さずに焦らずいこうと思う。

巡回その⑧の2



   記9月24日(水)  
 この市は国からの援助がいたるところに入っているようだ。
マカッサルから近いので、支援も入れやすいのだろうか?
理由ははまだ分からないが、巡回先のどこも施設には恵まれている。
PKBMを見学。
TKに負けず劣らずの施設だ。
この敷地では、裁縫(ミシン)、コンピューター、英語、Paket(普通の学校の授業)、図書館、幼稚園、と総合的に学習ができるようになっている。
図書館では、整然と本が並べられていて、子どもたちが本を読みに来ていた。
ジョグジャではこういった施設はあったが、こちらでは初めて。
このような施設は理想的だ。
タカラールでコンピューターの職業訓練校も、この地域だけだ。
いままでのどの地域にも見られなかった、施設の充実ぶりに驚くと共に、あまりの差にどうしてこんなに差ができるのか?より疑問が深まった。

巡回その⑧


   記9月24日(水)  
 巡回⑦のあとそのまま隣の市へ。
今日は3つの市を一気に回るので忙しかった。
写真は幼稚園。
机、いすが25人分。この部屋は教室にあたる。
その他に、集会所と遊び場にあたる場所があり、敷地の広さに驚いた。
今まで見てきたどの幼稚園よりも、施設が充実している。
聞くと、国からの助成を受けて立っているとのこと。
国や県からの助成のあるところと、ないところでは驚くほどの差がある。
これだもの、支援が欲しいと誰もが思うのだろう。
あまりにも違いすぎる・・・

巡回その⑦


   記9月24日(水)
  巡回⑦⑧⑨の地域は隣の県と隣接する所で、とても遠い。
そこまでの道のりは1時間くらいだが、なんといっても道が悪いのだ。
タカラールの道は、マカッサルへとつながっているメイン通りだけはきちんと舗装されているが、その他の道は徐行運転しないと進めない程。
道路はアスファルトの所が多いのだが、なぜかぼこぼこと穴があいている。
この地域までの道は特に悪く、がたがたと体を上下させながら進んでいく。

行く途中で市役所にあたる建物の前を通ったが、すごい人の群れだった。
インドネシアでは3ヶ月に1回、貧困層に対して1家庭につき1ヶ月約1000円の援助金が支払われるそうだ。
ちょうどこの日がこの市の支給日だった為、市役所の周りを村民が取り囲んでおり、市役所の前の庭は全て人で埋め尽くされていた。
市役所の前の通りはすごい人波で車が通れないほど。
警察官も沢山配置されていた。
こんなにもいるのかと思うほどだ。

この地域では、KF(文盲の人たちが勉強している場所)を訪問。
写真のような高床式の家の1階で勉強している。
学習の様子は今まで見たとおりだったが、学習のための教材が十分にあった。
いろいろな地域を見てきたが、学習教材の差が目立つ。
私の勤務地のPLS(学校外教育課)から、同様に配布しているとの話だったが、あまりにも差がありすぎるので、疑問だ。
これから少しずつ実態調査をしていきたいと思っている。

お菓子作りに励む日々



記9月22日
先週末から、家の若い方のibuがクッキー作り。
レバランに親戚中が集まるので、そのための準備らしい。
7KGの粉を使い、14種類のクッキーを作るとか。
チョコ・マーブル・バター・ナッツ入り・チーズと、種類も豊富だ。
出来上がったものからビンに詰め、レバランまで保存。
すでに4KG分くらいできており、保存缶5個はすでに満杯。
ここ数日午後はクッキー作りにいそしんでいる。
私もたまにはお手伝い。
クッキー作りは分量計量が大切!と今まで思っていたが、ここではほとんどが目分量。
でも、出来上がりはけっこうおいしくて、びっくりだ。
それも、断食中に作るわけだから、生地の味見もできない。
すべてがいままでの勘なのか?
とっても上手に作るので、びっくりしてしまう。
夜には一足先にクッキーをみんなで味見。
毎晩食べるので、確実に太っていること間違いなし?

ACARAはまだまだ続く!

記9月21日(日)
Kさんを見送ってからタカラールへ帰り、すぐ上司の家へ。
今日はここでACARA BUKA PUASA(断食明けの集会)
上司の家は、自転車で15分くらい。
久しぶりに自転車に乗って、初めての遠出。(距離的に)
ACARA参加ももう数え切れないくらいだ。
本当に毎日のように、どこかで開かれている。
上司の子どもは、中2・小4・3歳の3人。みんな女の子だ。
その他に親戚の子が5人くらいいて、総勢10人くらいの子どもたちが集まる。
何度か会って遊んでいるので、一緒に遊ぶのは楽しい。
子どもたちと共にプアサ明けを待つ。
夕方6時にプアサ明け。
6時半にはもう外は真っ暗になる。
7時半頃に解散となったが、外は暗く結局同僚がバイクで自転車についてきてくれることに。
この時間には、モスクへ行く人たちが町を歩いていて、初めて夜の町の様子を見ることができた。
沢山の若者たちが集まっていて、時々声をかけられる。
一人での帰り道は、やはり怖いなと思う。
送ってくれた同僚に感謝!

マカッサルをぐるぐる

記9月21日(日)
Kさんと、今日もマカッサルをぐるぐる。
ペテペテで行き先を聞いて乗車したつもりだったが、私の発音が悪かったらしく全く違うところへ。
市内をぐるぐるした挙句、ずい分と遠回りをして、やっと目的地へつく。
こんなに名前の似ているモールが2つもあるなんて、知らなかった!
でも、教訓にもなった。
やはり、しつこいくらいに行き先の確認をしてから乗車しなければ!

昨晩なくした帽子の代わりに、Kさんが使っていた白い帽子をくれた。
太陽の日差しが厳しいここでは帽子は必需品!
大事に使わせてもらおうと思う。

Kさんのおかげで、私もいろいろなところをぐるぐるできてよかった。
ぜひみなさんも、一度スラウェシ島へ!!

プアサの影響



お酒の大好きなKさん。
マカッサルにある中華街?でビールを飲もうということになったが、どこにも置いていない?
仕方がないので、スーパーに寄ってビールを買おうということになったが、いつも置いてある棚にはない?
そういえば先輩隊員がこの時期は売っていないよといっていたが、こういうことだったのか!
この時期、スーパーでは棚の酒は全て倉庫にしまってしまうらしい。
外国人が使うスーパーさえも売っていないと言う状況。
でもせっかく楽しみにしていたので、どこかにないかと知恵をしぼる。
夕陽を見ながらビールを!と言うわけで見晴らしの良い海沿いのホテルへ。
ここは外国人がよく使うホテルなので、ここでなら何とか飲めそう
プアサを考慮してと、ビールも写真のようなTea Setで登場。
待ちに待ったビールだったが、Teaに入れられたビールに気持ちががっくり?とKさん。
でも、飲めるだけいいか!と言うことで、飲む。
お茶を飲むように、ビールを飲む。
やっとここでビールが飲めた。
が、このあともビールを求めてさまようことに!
マカッサルはSeafoodがおいしくて有名なので、何度か隊員たちと来たことのあるレストランへと移動。
ここは数少ないビールの飲めるお店だ。
事前にプアサ中もお酒が飲めるという確認済みだったので、来たわけだが・・・
注文すると、今日はビールがないという。
なぜ?と聞くと、プアサだから・・・と。
結局、Seafoodを持ち帰りにして、食べ物をいくつかの店で買いホテルへ帰る。
ホテルなら、ルームサービスでビールがある。
やっと、Kさんと私の待ちに待ったディナータイム。
部屋で、乾杯しながら一日の疲れを癒す。
ラマダン中の飲酒はご法度なのだ!
これも宗教の力か?
お酒の大好きな人は、ラマダン中の旅行はしないほうがいいかも・・・

タカラール巡り

記9月20日(土)
バザールへ。
すごい人。
平日しか来たことがなかったので、今日は新たな発見の続出。
外国人2人で歩いていたので、いろいろな人に声をかけられた。
いろいろなものが売っていた。
以前来た時は、通りに面しているところをぶらぶらしただけだったので、本格的にバザールの中に入ったのは初めて。
通りから離れ路地裏に入ると、そこは公園のような一区画になっていて、さらに沢山のものが売られていた。
アメ横のような感じ。
食料品から、アクセサリー、服、雑貨など。
ありとあらゆるものが販売されている。
後で現地の人に聞いたら、週末はこのバザールのために、中華系の人たちがほうぼうからやってきて店をひろげているとのこと。
だから、平日よりも賑やかで、品数も多いようだ。

ひとしきり歩いた後は、バザールの近くに住む上司の家に挨拶に行く。
ちょうど居合わせた親戚の人が家まで送ってくれると言って、送ってくれた。
私も知らなかったのだが、タカラールに名物菓子があった。
米からできている。日本の雷おこしみたいなやつ。
帰りがけに、名物店だというその店でKさんにお土産を持たせてくれた。
私の散歩コースにある店だったが、ただの商店だと思っていた。
こんな名物店が身近にあったなんて!
こういう機会でもないと知らないままなので、よかった。

その後は、近くの集落まで散歩。
車でしか行ったことがない場所だったが、二人でゆっくりと歩く。
両脇は、見渡す限りの田んぼ道。
歩いていると声をかけられ、振りむくと同僚の家があった。
そこでちょっと休んで、またさらに歩く。
ちょうど小学生の学校帰りに出くわし、子どもたちと話をしながら歩く。
こんな近くに集落があったことが分かり、これからも自転車で行けそうで良かった。
午後からはマカッサルへ。

いままで気づかなかった地元のあれこれを発見できた!
これからの散歩がますます楽しみになった!

旅人登場!


       記9月19日(金)
日本からの初めてのお客様。
5年前に内閣府中国団派遣で一緒だったKさんが、タカラールへ!
初めてのスラウェシにも関わらず、一人でペテペテを使って来てくれた。
自称「自立した旅人」を名乗る彼女は、旅に関するあらゆるものをコンパクトにまとめて持参している。
仕事柄、旅慣れた人だ。

写真は、お土産の数々。
荷物が重いと電話で話していたが、それもそのはず。
まるまるバッグ1つ分私への荷物。
こんなに頼むつもりではなかったんだけど、こまごまといろいろ頼んでしまったら、こんなに沢山になってしまったのだ。
Kさん、本当に重かっただろうと思う。
でも、嬉しかった!
日本の物たちと一緒に、日本の香りを運んでくれたよう。
家の人たちにはリクエスト通り、チョコレートとおせんべいを持ってきてくれた。
家のものはとても喜んでくれた!
夕方は一緒にタカラールの町を散歩。
一人ではなかなか町を歩けないので、私にとっても新たな発見続出!

貴重な日本からのお客さんと、2泊3日を共に過ごす!!

マンゴーの木

一家に一本という感じで、どの家にもあるのがマンゴーの木
さしあたり、日本で言う柿の木のようなものだろうか?
今がちょうどマンゴーの季節になろうとしている。
若いマンゴーの果実を細切りにし、焼き魚と一緒に食べる。
薬味のような役割だが、味はすっぱくて塩と酢が混じったような感じ。
でも、これが魚によく合って、おいしい。
すっぱさは、梅干にどこか似ていてなつかしい。
もちろん、熟したマンゴーはとても甘くておいしいが。
若いマンゴーの食べ方は、ここに住んでいる間しか味わえなさそうだ。
毎日のようにマンゴーを食べているが種類もいろいろあるようで、家のはまだ若く実が鈴なりだが、事務所のマンゴーはすっかり熟していたのでもう全てもぎってしまった。
その家ごとに実りに差があるようで、近所の人にあげたりもらったりしている。
 マンゴーの木は立派で、本当に鈴なりという言葉がよく似合っている。

2008年9月23日火曜日

1000RPの移動式おもちゃやさん


 夕涼みをしていると、家の前を通る自転車?がさまざま
日本の豆腐売りや、屋台のラーメンやさんのように、
自転車に乗って物売りがやってくる。
子どもたちに大人気は、1000RP(セリブと読む。リブはお金の単位)
本当の名前は知らないが、子どもたちはこう呼んでいる。
日本円で10円くらいだが、結構いろんなものが売っている。
1000RPと見せかけて、実は2000RPだったりすることもあり、
子どもたちも慎重によく選んで買っている。
ここには、髪を縛るゴムやマニキュア、小さい子が喜ぶようなおもちゃなど。

子どもたちが目移りしそうなほど、いろいろな種類のおもちゃがある。
男の子に人気は、narutoのカードとフィギュアだ。
写真のおじさんが売っている人。
うちの子どもたちはすでにお得意さんだ!
今日も庭の前でセリブを握って、おじさんを待っている。

巡回 その⑥




 記9月18日(木)
12の村からなるタカラールで一番広い市へ。
海沿いにある、村だ。
レクリエーションなどで、タカラールの人もよくこの近くの海を利用するらしい。
以前一度だけ、来たことのあった地域だ。
 担当者が気さくな人なので、いろいろと話が聞けた。
どの巡回も、私のために車を用意してくれている。
ありがたい。
今日の巡回中には、車がエンストしてしまいみんなで押したがエンジンがかからず・・・
というトラブルはあったものの、こういう時はどこからともなく人が集まってきて助けてくれるのも、インドネシアならではだ。
今日も5箇所ほど回ったが、幼稚園・PKBM共に実際の生徒はおらず。
プアサ中ということと、午前中の巡回ということで実際の授業は見られずに残念だ。
プアサが明けたら、巡回時間を午後に変更してもう一度各地域を回ろうと思う。
 
写真は、となりの市のPKBM。
今日の市の担当者が、隣の市でPKBMの会長?をしている。
PKBMと併設して、ノンフォーマルの中学校のようなものがあり、そこから子どもたちがやってきたのだ。
外国人が珍しいと言って、沢山の子どもたちが部屋に集まった。
体つきは日本の小6位で小柄だが、皆中学生だ。
子どもたちに囲まれて、久しぶりに中学校の教員に戻ったような感じ。
すかさず男子生徒の赤いベルトに目がいってしまい、一人で笑ってしまった。
まだ教員の感覚は忘れていないようだ。
子どもたちも最初は恥ずかしがっていたが、仲良くなったとたん質問攻めに!
そういえば、インドネシアに来てから、こんな風に子どもたちに囲まれたのは2度くらいしかないな。
子どもたちとの活動をと期待に胸膨らませやってきたのだが、実際の活動場所が学校ではないため、なかなか集団の子どもたちに出会うことが難しい状況。
ましてや、文盲(字を読んだり書いたりできない人)の授業は、おばさまばかりで子どもたちはいない。

子どもたちのにぎやかさと、私を見てちょっとはにかむ姿が、なんだか懐かしかった。
もう少し活動に慣れてきたら、キャンプの日帰り行事のようなものをやりたいなと思っている。
なんだかちょっと忘れていた感覚。
久しぶりで、なかなか楽しかった。