2009年12月20日日曜日

SELAYARへの旅





2009年10月25日(月)


スラウェシの端にある、スラヤール県へ。
スラウェシは広く、南スラウェシでさえろくにまわっていないので、
スラヤールのほうまで行けるとは、自分でも思っていなかったのだった。
(ここへ自力でいくには、交通機関・気合が足りないと行けない)

 SV隊員の仕事に随行し、隊員仲間と。
2泊3日の旅だったが、
軍艦での寝泊り。
広い船の中には、700人以上の乗員がいたとか。
写真はスラヤール県の海&タカボネラテという小さな島々。
空は広く、海は蒼い。
心あらわれるひととき。

ソフトボール大会

2009年10月11日(日)
 
 恒例のソフトボール大会。
日頃ほとんど運動をしないのだが、
唯一運動で汗を流せる機会だ。
この日のためにトレーニングを積もう!
と、試合終了直後には毎回思うものだが、
任地に戻ると継続しないのが難点だ。

 でも、暑い太陽の下
いい汗をかいていると、
ちょっと得をした気分になってくる。

2009年11月4日水曜日

相変わらず停電の毎日


2009年10月9日(金)

最近1日3回停電がある。
1度の停電は2時間以上になる。
昼間の停電の被害は少ないが(TVが見られない、扇風機が使えないなど)
夜はまっくらになってしまうので大変だ。
こんなとき、私が日本から持ってきたマグライトは大活躍。
停電するとすぐに、これを持って自分の部屋を出て行く。
リビングに集まったみんなで、話をしながら電気がつくのを待つ。
蒸し暑く、薄暗い中で、話し声が響く。

真っ暗の中、子どもたちはごはん。
私たちは電気がついてからごはんだ。

講座開催



2009年10月8日(木)

郡の担当者向けの講座をやっと開くことになった。
企画の段階からこの日を迎えるまで、実に数ヶ月以上経っていた。
企画の内容はいいというものの、費用をどこから出すのか?

という問題と、この国特有ののらりくらり・・・という点で、
延びに延びになり実現化しなかったのだった。
 
 教育局から私の活動への要望の一つが、技術講座の開講である。
活動1年を過ぎて、やっと配属先の要望に一つ答えることができた。
この技術講座を、これから定期的に行っていく。
この講座は、郡の担当者向けに開講し、郡の担当者→PKBMの教員→生徒 

という流れで教えられていくことになっている。

もちろん、各郡で講座開講の際には、私も一緒にインストラクターとして同行するということにする。
郡の担当者には、技術講座に自分が参加することによって、
技術を得ながら自分のPKBMで実施可能かどうかを計ってもらう機会としても役立ててもらう。

そんなことをもくろみとして、実施された。
今まで県で行われる他の活動を見てきたが、郡の担当者もしくは教員のみが技術を得るものの、

生徒にまで還元されないのが気がかりであった。
講座を受講してそれで終わってしまうのだ。
私の講座は、本来の目的である生徒たちへ還元されるまでを1サイクルと考え、
そのフォローアップまでしていきたいと考えている。

第1回は、郡の担当者たちが最も興味を寄せている『携帯ストラップ作り』にした。
今日は基本の『平編み』を教えた。
日本のように開始時間に集まってくれるわけではないので、
来た人から教えていき個人対応になるので、その点が少し難しい。
一斉に話を聞いてくれて同じことができるのは、やはり日本人だからできることなのかもしれない。
8時集合で通知を出したが、実際は9時頃にならないと人は集まらないというのを
ここでの暮らしで学んでいたので、気長に待つことに。

(それでも自分は8時前に会場に・・・ここは日本人としての私だ)
9時過ぎても誰も来なかったのにはちょっとドキドキ。
でも、9時半頃にはぼちぼち集まってくれたので、良かったなと思う。

 講座自体も、技術を覚えるだけが講座だと思っているようだ。
私はここで、もっと理論的な話もしたいと思い、準備していったのだが・・
話を聞いてもらえる状態ではなかったので、その部分は次回に持ち越すことに。
まあ、初回から焦りは禁物。
まずは参加者が楽しんで、興味を持ってくれるのが一番!
と、考えることにした。
そんな中での再発見一つ。
 参加者の中で、思わぬ人が熱中して、とても興味を持ってくれた。
今まであまり話をしたことがなかった人なので、この時間を媒介に、ぐっと距離も近まった。

 この講座でやる気を持ってくれた人を大事に今後やっていきたい。
またあらたな活動の糸口がつかめたような気がしている。

心を動かすもの

2009年10月7日(水)

日本からの郵便。
山の師匠からの便りだった。
送り主の名を見ながら、まさかー!と嬉しくなった。
見慣れた字で、書き綴られている。

今ここで活動しているアクセサリー作りは、もとはといえばこの方から山で教わったものだ。
他にもたくさんのクラフトをはじめ、子どもたちとの接し方やここに書ききれないほど、
多くのものを学ばせてもらった。
キャンプ場のことはこのブログでもいろいろと書いているが、
このキャンプ場との出会いとそこで暮らした日々が、私の軸となっている。
そのキャンプ場の持ち主である。

 その手紙にあった
『今しか出来ないことは、今やろう』

机の前に貼ってあるキャンプ場の写真を見ながら、
この数日がっかりしていた気持ちがどこか晴れていくように感じた。
くよくよしているひまはない。
この言葉を胸に、前進あるのみだ!

帰国したら、
胸を張って山へ上がる自分であるために、
くじけずやっていける私でありたい。

たくさんのお父さんお母さん

 2009105日(月)

 協力隊員の活動視察に20名ほどの方々が大阪からインドネシアへやってきた。

マカッサルを拠点に、2日に渡って数名の隊員の活動を見学するそうだ。

 夜の晩餐会に隊員が呼ばれ、私を含め8名の隊員が参加。

おいしい夕食と語らいの時間を過ごさせていただいた。

 隊員としての活動内容や、生活の様子を聞かれ

自分のことを話す。

先日の説明会がうまく行かなかったことを話すと、

励ましてくださり、少し心が和んだ。

1度失敗したからといって、チャンスはまだ残っているのだ。

説明会はうまくいかなかったが、

カスマとウニは一生懸命商品を作ってくれていることには変わりがない。

会の最後に、村で作った商品をPRし買っていただいた。

大量購入していただき、在庫がほとんどなくなるほどに・・・。

『ピンチの後にはチャンスあり。』

ソフトボールの監督が、いつも言っていた言葉だ。

多少うまく行かないことがあっても、きっと次のチャンスがやってくる。

その時のためにがんばろう!

今日の販売を経て、また村の子どもたちのモチベーションがあがるといい。

何と言っても、私自身が嬉しいのだから。

まだまだ私の活動は中盤。

あきらめず粘り強く、活動をしていこう!

2009年10月27日火曜日

村での説明会

2009年10月1日(木)


朝10時から、アクセサリー作りのグループ立ち上げの説明会を行う。
今までこのグループ作りに関しての話は個人個人にしていたので、
すでに数人が参加の意思表示をし、この説明会を待っていてくれた・・・
はずだった。
対象は、卒業後もこの村以外で仕事を探すつもりのない生徒たち。
家の仕事の合間に、内職としてできるというメリットがある。
昨日生徒の家を全部回り、説明会に来ないかと誘った。
その時の手ごたえでは興味を持ち来てくれる感じだったので、
準備にぬかりなく、期待も大きい。

 開始時間を1時間過ぎても、誰一人来ない。
まさかと思いながらも、待つ。
やっとUNI(ウニ)が来てくれた。
2人でみんなが来るまでと、アクセサリー作りをして待つが
残念ながら他のメンバーは来なかった。

一番熱心にアクセサリー作りをしてくれているKASMA(カスマ)は
パーティー準備にかりだされあらかじめ来られないことを伝えてくれていたが。
他のメンバーは一体どうしたのだろう・・・

期待していた分、落胆も大きい。
一人しか来ないと言う現実も、一人来てくれて、ありがたいと考えよう。
こんな風に一筋縄でいかないところに、
この国の現実があるのだから・・・

そうは分かっていつつも
自分のモチベーションがさがってしまったことを感じ、
この気持ちを少しもてあましている。

村の夜



2009年9月30日(水)

ここのところ、じっくり村に腰をおちつけて過ごすことがなかったのだが、
久しぶりに村で過ごす。
宿泊先は、イブミナの家。
娘が、生まれて6ヶ月と言う赤ちゃんを連れ、レバランで里帰りをしてきていたので、
にぎやか。
宿泊して大丈夫かと聞くと、もちろん!
と快くOKをもらい、いつも通り一緒に暮らす。
 昼間は生徒の家を家庭訪問。
 夕飯前は、孫の中学生のイロにネックレス作りを教える。

 これから晩御飯を食べようという時に、急に停電。
村の停電は長い。
早速ろうそくを灯し、長期の停電に備える。
その間中、アクセサリー作りを続けるわたしたち。
いつになったら電気がつくのかなァ・・・なんてのんびり話しながら、
気がつけばもう2時間は経っている。

 ろうそくの灯と、高床式の家が、どこかキャンプ場の教室を思わせる。
子どもたちとキャンプをしていたときは、
夜のキャンドルファイアーが楽しみだったものだ。
キャンドルに照らされた子どもたちの笑顔の素敵だったこと。
ろうそくに照らされたイロの顔を見ながら、
日本の子どもたちに思いを馳せる。
村の家が好きなのは、どこかキャンプ場に似ているから。
周りの風景も、家の様子もどことなくキャンプ場を思わせる。

そんな家での豊かな時間。
ゆっくりと夜が更けていく。
停電が手伝って、何もしない時間・・・

こういう時間の使い方が豊かだと感じるようになったのは、
この国で暮らしたおかげで気づいたことだ。

そんな時間をしみじみと味わっていると、
停電終了!

9時過ぎに、やっと夕食だ!

生徒の家訪問

2009年9月28日(月)

 卒業取得証明書のコピーを手渡すついでに、生徒の今の生活の様子を見たいと
1軒1軒訪問することにした。
ほとんどの生徒とは、試験後も村で会っていたのだが、
数人の生徒とは全く会わないまま2ヶ月が経過していた。
この機会に、家の人とも話ができればと思い、行くことにした。

 前にも少し書いたが、この証明書の威力は偉大のようだ。
卒業資格があるのとないのとでは、仕事を見つける際に大きく違ってくる。
お母さんは娘の証明書を近所の人に見せ、マカッサルで仕事を探すのよ!
と得意げに話している。
やっぱり、学校を卒業することは、お家の人にとっても嬉しいものなのだな。
と、分かった。
学校に行かせたくない親が居るわけではなく、行かせるための環境(お金など)が整わずに、通わせられなかったのだろうということが、はっきりと分かった。

証明書を持った彼らが、これからどんな道を進むのか?
また楽しみになった。

レバラン

2009年9月20日(日)

朝5時起床。
今年もお祈りに同行。
(昨年のブログにも書いたかもしれないけれど。また書きます)
5時半には家族中で、県で一番大きな広場に行く。
広場には、お祈りの服を着た人たちが、到着した順に席をとりすわっている。
雰囲気は、運動会にお父さんやお母さんが場所取りをしている感じ。

 6時半には一斉にお祈りが始まる。
今年も私は広場の隅でこの様子を眺める。
2度目のこの行事に、1年が経ったのだなァ・・・としみじみと感じたりして。

 眺めていると、子どもたちの声。
時たま寄らせてもらっている孤児院の子どもたちだ。
なぜなのかは分からなかったが、お祈りの列には加わらず、
私と同じように隅にかたまり眺めている。
どうしてお祈りをしないのか?
あの場所に並ばないのか?
聞こうかどうしようか悩んだが、聞かなかった。

 お祈りを終えると、そのまま親戚周り。
今年は午前中のうちに5軒、のちマカッサルの親戚の家にも行った。
各家庭にお邪魔し、あいさつをするとき、
私のイブは涙ながらに抱き合って喜びを伝え合っていた。
今日はそんな1年を喜び合う、貴重な一日だということを知った。

にぎやかなハレの日に、共に現地の人と過ごせることが、とても嬉しい。

2回目のレバラン。
来年は居ないのだねぇ・・・と口々に言われ、
自分の帰国も近いことをまた実感する一日だった。

プアサ終了!

2009年9月19日(土)

今日でプアサ(断食)終了。
マグリップ(夕方6時頃)のお祈りを済ませ、
終わったー!と喜び合いながら、夕食。
大きな事をやりとげたという達成感でいっぱいのようだ。

私のプアサは、ジャカルタに行く前までの2週間で終わってしまった。
2週間目にはホームスティ先の人たちがとても心配をしてやめなさい!と
口々にいわれていたので、帰ってきてから私が続けなかったことは
かえってよかったようだ。

 いよいよレバラン。
日本の正月のようなもので、遠方から親戚がやってくる。
部屋の掃除を済ませ、カーテンも取替え、
家の人は新しい服を買い、(レバランに新しい服を新調するようだ。)
靴を磨く。
 
 町全体が明日に向けてざわめいている。

生徒に再会

2009年9月18日(火)

生徒たちの卒業資格試験の証明書が発行され、私の事務所に受け取りに来るようになった。
村から出てくるのは、遠いうえに県の役所に!ということでかなり緊張するようだ。
村でしか会ったことのなかった私たちだから、
私の事務所での仕事振り(と言っても、仕事らしいことはしていないが・・・)
をみて、仕事してるー!とにぎやかになる。
お互いちょっぴり恥ずかしかったりして・・・

それを見ていた上司は『あなたの生徒たちだな!』
と、声をかけてくれた!

この証明書を持って、これからは仕事探しになるそうだ。
早くもマカッサルで職を見つけるとはりきっている生徒がいた。
ずっと村暮らしの彼らが都会で仕事をするなんて、
本当にできるのか少しだけ心配ではあるが、
こうして自分でつかんだチャンスを大事に生かして
自分の新たな人生を切り開いていって欲しいと願わずにはいられない。

2009年10月6日火曜日

嬉しい便りにホロリ


2009年9月15日(火)
 

1週間ぶりにタカラールへ。
帰るときはいつも新鮮な気持ちになる。

 家に帰ると、日本からの郵便物があった。
日本の元同僚(といっても、みなさん先輩だけど!)
からの封書だった。

 郵便は、嬉しい。
海を渡って、手元に届くまでたくさんの想いをのせてきて
くれるような気がする。

こうして多くの人に支えられていることを、
心強く感じている。

本当におわかれ

2009年9月15日(火)

総会の準備期間が終わり,ジャカルタから任地へ帰る。
先輩たちもあと1週間で日本へ帰るため、
ドミトリーに宿泊していたので、最後にあいさつ。

先日南スラウェシの送別会で別れた先輩たちと、ジャカルタで再会。
こうしてインドネシアで最後のお別れというのに、
まだ実感がない。

きっとまた、どこかで会えるから!
そう思いながら、笑顔でおわかれ。
その瞬間に、なぜか目にあついものが・・・
あわててぐっとこらえる。

別れはいつも苦手。

でもきっと、一度つながった手は、
どこに居てもはなれないはず。

本当に会いたい人とは、
必ずまたいつか会える。


先輩隊員のみなさま、本当にありがとうございました。
2年間の活動、お疲れ様でした。
無事に帰国となりますように!

雲の上から


2009年9月8日(火)
 
 総会準備で今日からジャカルタに上京。
インドネシアでは島から島への移動はほとんど飛行機なので、
ここで生活してからずい分と飛行機に乗るようになったものだ。

今日は天気が良く、窓の外には雲が・・・
雲の上の景色は、思わずカメラを持ちたくなる

どこまでもあおい。

また一つ齢を重ねた日

2009年9月1日(火)

また一つ齢を重ねた。
そういえばここ数年は、
誕生日を海外で迎えている。

いつも通りだけれど、
どこかいつも通りではない特別な一日。

ここを区切りに、
これからの1年を大事に過ごしたいと思う。

最近の活動 8月

   2009年8月27日(木)

 午前中は事務所勤務。
午後は村への訪問。
これが最近の毎日だ。
PAKET Cの授業は終了したが、村には定期的に通っている。
アクセサリー作りを、村の生徒と一緒に行っている。
毎日作っている彼女は、今は私より上手だ。
とにかく丁寧に、心を込めて作っている。
仕上がりがきれいだと買ってくれた人に褒められるので、
それを伝えるととても喜んでいた。

プアサ(断食)中はおなかがすいてしまうので、
気を紛らわすためにも作るのが楽しいと言っている。
 去年はプアサ中に村に行くと気を遣って飲み物やお菓子などを出してくれていたが、
今年は私もプアサなので、周りに気を遣わせないですんでいる。(と思う)

一緒におなかすいたねー!といいながら、
アクセサリー作り。
プアサ明けまであと少し。
そういいながら、別れ、家に帰るペテペテに乗りこんでいる。

写真は生徒たちの作っている作品
品質保持と販路確保に向けて、考えることは山ほどあるが、
何より村の生徒の家で過ごす時間が、私にやりがいを与えてくれている。

私の活動は、たくさんの人に影響を与えることはできないかもしれないが、
わずか数人とでも深く関われることができれば、それでいいのかもしれないと、
最近思うようになった。
 キャンプ場や学校で一人ひとりの子どもと関わってきたように、
ここでも一人ひとりとの関係を大事に築いていきたい。

プアサ(断食)開始!

   2009年8月24日(月)

 タカラール県では、約98%がイスラム教徒といわれている。
赴任して2回目のプアサーPuasa―(断食)月の始まり。
22日から始まり、今日は3日目。
マカッサルから昨日帰ってきた私も、遅ればせながらプアサ体験。
早朝3時にサフールーSahur―(日が昇る前の食事)をとり、
夕方6時のお祈りまで、一切飲食しないというもの。

 去年は赴任したばかりだったので、プアサの意味も分からず
やってみようという気は全く起きなかったが、
1年ここに暮らすと、自然と現地の生活が身についたからか、やってみようという気になった。
 通常はサフール後、お祈りをしてまた寝るのだが、私はそのまま活動開始。

何日できるかは分からないが、無理をせずにやってみるつもり。
小学校1年生から初めてプアサをはじめるようで、
小学校低学年は昼の12時までプアサを行う。
(試行期間というところか?)

今日は、初日の気合で夕方6時までやってみたが、
12時までのプアサでOKと自分にも許容範囲をもたせ、
まずは1週間続けてみるつもりだ。

プアサ明けに、イブがおいしそうに水を飲む。
去年はその様子を眺めていただけだったが、
今年は共に同じ気持ちを味わうことができた。
なんだか、そんな自分が嬉しい。

プアサ明けに、家族で食べるエスブア(フルーツポンチ)の味は格別で、
やったー!という感じ。

その後は、夜中まで昼間の分まで食べる。
ずっと食べどうしになる。
だから、ダイエットにはならないもよう・・・

生まれたてのあかちゃん


2009年8月20日(木)

 村でいつもお世話になっているイブミナに2人目の孫ができた。
生まれたばかりの小さな赤ちゃんを抱いて、うれしそう。
孫が来るので、必ず来るように!と言われ
家に寄ったのだった。

 イブミナは現在、中学生の孫と2人暮らし。
娘はマカッサルで働いていて、帰って来ない。
だから、孫の面倒を見ながら一緒に暮らしている。
こんな風に、親と離れて暮らす子も、ここではめずらしくない。

 新しい孫に、ほおが緩む。
こんなに嬉しそうな顔を見たのはひさしぶりだ。
中学生の孫も、赤ちゃんを抱いて嬉しそう。

 新しい命の誕生は
まわりを幸せにさせる。

送別会で感じたこと

   2009年8月21日(金)

先輩隊員の帰国が近づいてきた。
今日は南スラウェシでの送別会。
今まではあまり先輩隊員の帰国もピンと来なかったが、
今回はすごく胸にぐっとくるものがあった。

ほぼ1年南スラウェシで一緒に活動していたこともあり、
先輩隊員一人ひとりとの思い出も深く、
それまであまり考えることのなかった自分の帰国の日までもが
重なった。

 先輩隊員の活動の軌跡を、自分の活動の今に重ねる。
それぞれが苦労しながら、開拓していった道筋が伝わってくる。
私が帰国するとき、何を思って帰るのだろうか?

2年間という、期限のある活動。
必ず帰らなければならない。

それまでに自分のできることをどれだけやれるか?
常にそれを感じながら日々過ごしていくことが大切なんだと
強く強く思う。

2009年9月12日土曜日

独立記念日

   2009年8月17日(木)

64回目の独立記念日。
広場に集まる姿には、驚かされる。
本当にたくさんの人が、このために集合する。
この日は、集合時間に遅れる者も少なく、
ほぼ時間と同時に開始の合図。

インドネシア人のパワーを感じる。
広場いっぱいに集まった県民

今日一日が国民にとって
特別な日であることを実感した。

独立記念日に向けて




   2009年8月13日(木)

 県内は一気に独立記念に向けての準備が始まっている。
大通りや各家の柵には国旗がはためいている。

 今日は、子どもたちの行進の日。
小学生~高校生までの各郡の代表学校の生徒たちが、
県庁に集合し、通りをぐるっと大行進。

見物客もたくさん集まり、大賑わいだ!

同僚からの一言

   2009年8月12日(水)

事務所に居ると突然、年配の同僚から一言
『家にはきちんと定期的に連絡をしているのか?』

『いえ・・・』
と言葉を濁す私。

『お母さんのおなかに居るときから、
子どもの事を一番気にかけているのは父と母。
だから、両親は大事にしなければいけない。
心配をかけるようなことはしてはいけないよ。』
と、諭された。

 村の子たちもそうだが、私の周りの現地人たちは
本当に家族を大事にいたわって暮らしている。
どの生徒も口をそろえて
『大きくなったら両親の手助けをしたい』
と言う。

こういう根幹があって
村の生活があるのだろうなぁ・・・
と思うと、
数日前に知った子どもたちの夢と、
親の気持ちとのせめぎあいを感じて、

少しだけ村人の考え方に触れたような気がした。

訪問者大歓迎!

   2009年8月11日(火)

 日本の小学校の先生方の訪問があった。
それまでいつもひっそりと授業を行っていたから、
こんな風に来客があると子どもたちの気持ちもはずむ。

先生方が一緒にアクセサリー作りに参加してくれた。
子どもたちは得意そうに教えながら、
とても楽しい時間を過ごしていたようだ。

片言の日本語を使って日本人に自己紹介をしたり、
日本の歌を歌ったり・・・

こんな風に自分たちの学びを生かせる機会を
いただけて、感謝している。

いい影響をたくさんいただいて、
私も子どもたちも励みになった一日となった。

撮影を通して知ったこと

   2009年8月10日(月)

 ある日本のTV番組が、村での活動の取材にやって来た。

生徒の家に寄り、家族にインタビューすることに。

ここ1ヶ月、毎日のように通っている家だ。
家族中と仲良くなっていたので、
日本からの来客も快く受け入れてくれたのだが・・・

村のお父さん・お母さんだから、かなり緊張していたようだった。

中にはきわどい質問や、一緒に過ごしているからこそ聞けなかった質問もあった。
でも、その質問のおかげで、初めて聞けた本音もあった。

雑談の中で、何度か聞いてみたことがある
私の生徒たちの、将来の夢・・・

今日初めて、生の声を聞くことができた。
いつもはふふふと笑って流されていたのに、
今日はみんな夢を語っていた。
それぞれの夢は、本当に違いない夢だった。
洋服屋の定員、メークアーティスト、先生、などなど・・・
その子の特徴ととてもマッチしていて、
本当に夢を叶えたいというのが伝わってきた。
そのために学校に通いたい!
でも、お金がなくて進学はできない・・・

その声を聞いてしまった今、
彼らの夢を夢で終わらせないために・・・
私にどんなことができるだろうか・・・

と、新たな課題が見つかった一日だった。

村のお菓子作り


   2009年8月9日(日)

結婚式やパーティーなど、行事には必ずと言っていいほど出されるお菓子。
バナナをつぶしたもの、卵、砂糖、サンタン(ココナッツからとった重曹?)
を混ぜたものをバナナの皮で包み蒸したものだ。
バロンコという。

 今日は村に行き、いつもの通り過ごしていると
幼稚園の校長の家に行くからと言うのでついていくことにした。
そこで、このお菓子をつくっていたのだ!
『作り方を覚えて帰りなさい!』
と言われ、一緒に作る。

こんな風に突然お菓子作りが始まり、
いつの間にか一緒に作っている。
その場に居合わせた人みんなが手伝って、お菓子作りが進む。
村ではこういう事が自然に行われている。

その一員になれた自分が嬉しい。

と喜んで調子に乗って作ってみたが、うまく完成したかどうかは
食べてからのお楽しみだ!

村の幼稚園運動会




   


2009年8月8日(土)

 「明日は幼稚園で行事があるから!」
と村の幼稚園の校長先生からのお誘い。
どんな行事かと行ってみると・・・

インドネシアにもありました!
運動会!
子どもたちの障害物競走から、
保護者の競走まで。
暑い太陽の下、笑顔がいっぱい。

こんな風に、笑顔のあふれる行事を
私も運営していきたいとつくづく思う。
自分のテンションも自然にあがるのを感じる。

それにしても、太陽に負けない笑顔、
子どもも大人も最高だ!

EXPO TAKALAR 2009 その2



   2009年8月7日(金)
 
 出張遊園地の様子。
このほかに、移動用観覧車・回転木馬もある。
遊園地はないけれど、こうやって移動式遊園地。
とても面白い。
家族連れで、大にぎわい。

2009年8月23日日曜日

EXPO TAKALAR 2009






   
2009年8月5日(水)

 
8月1日から1週間行われているこの行事は、
県の中心部にある一番大きな広場を利用して行われている。
県の役所や各郡の役所がブースを持ち、活動の紹介や地元特産品の販売など、
とても賑やかに行われている。
昼間暑い現地では、夜の催しはにぎやか。
夜7時頃から行われ、11時頃まで続くそう。

 教育局のブースもあり、たべものから服まで、
いろいろなものを販売している。
このブースに生徒の作った携帯ストラップを置いてもらっている。

私も毎晩参加している。
夜7時以降、家から出たことがなかったので
こういう時間はとてもおもしろい!
夜遅くまで、街はにぎやかだ。

妹のインドネシア訪問



   2009年8月4日(火)

 肉親初のスラウェシ上陸。
妹がついに任地にやってきた!
海外旅行さえこれで2度目と言う彼女が、
言葉も全く通じないインドネシアに来たのだった。
スーツケースの中には、日本からのおみやげがたくさん入っていた。
注文したものも多くあったが、
こうしてはるばる運んでくれたのは本当に嬉しいものだ。
1年以上ぶりの再会だったが、お互い相変わらずだった。

 私の任地には2日間しかいなかったが、
幼稚園教諭である彼女は、
私のいつも通っている村の幼稚園で、
言葉は全く通じないのに、楽しそうに子どもたちと遊んでいた。

 任地の私の友人たちは、
遠く日本から来た妹を珍しそうに見ながら、
妹の訪問をとても喜んでくれた。
短い時間だったけれど、
心温まる現地の人たちと触れ合いながら、
持ちきれないほどのおみやげー
タカラール名物のお菓子や、
私の生徒が私の家族のためにとその場で作ってくれたお菓子を
持ち帰ってくれた。
短い時間だったが、私を囲んでいる人たちに会って、
私の居心地の良さを体感してくれたのではないかと思う。

はるばるやってきてくれた妹に感謝!

バリで販売

 2009年7月27日(月)

この数日の新作品・アイディアを全て持参し、バリ島へ。
当初は妹を迎えに行く予定だけだったが、
バリの小物屋さんをめぐり、商品を置いてもらえないか交渉してみることにした。

結果は・・・
日本人経営者の店をあたってみようとまわってみたが、
経営者はおおむね店には居なくて、会うことができなかった。

その中で、1軒だけ試しに置いてくれることになった。

売れますように!

2009年8月15日土曜日

こどもの日


   2009年7月23日(木)

朝事務所に行くと、なにやら騒がしく幼児がいっぱい。
聞くと今日は「国民のこどもの日」 
事務所の中庭いっぱいに子どもたちがあふれる。

日本でいうところの、『ぬり絵大会』が開かれた。
各郡の幼稚園の代表幼児が集合。
先生や両親の付き添いのもと、にぎやかにすすめられる。

タカラール県のラジオ局も生放送に来て、課長へインタビュー。
ついでに私とKO*CAの2人も出演。
でも、突然ふられた質問へのコメントは、言葉が出ず・・・

いつもは静かな事務所が、子どもたちの声に包まれる。
こういう1日もいい。

お母さんも一緒に

   2009年7月22日(水)

生徒の家に通ってアクセサリー作りをするようになってから、
少しずつ作業をしてくれる人が増えてきた。
家族が手伝うようになったのだ。
お姉さんや妹たちが一緒に作っている。

ところが、お母さんはいつも見ているだけだった。
どんなに誘っても、
「私はできないから・・・」
と、やろうとはしてくれなかった。

そのお母さんが、なんとついに!
私たちが作業していると部屋の隅でやっているではないか!
ちょっと恥ずかしそうに、たまに編み方が間違っていないかどうか
娘に確認している。

お母さんまでもが仕事をしようという気持ちになってくれたのは、
とても画期的なことだ。
これから続くかどうかは分からないが、
それでもやろうとした気持ちが、嬉しかった。

日本人に向け販売



   2009年7月18日(土)

 その後も変わらず生徒がアクセサリー作りをすすめている。
製品はできてきたが、売り先がまだない。
今日もある人に相談。
「旅行客である日本人にも売ってみたら?」
と提案を受ける。
さしあたり見本にと、いくつか購入してくれた。

今後は売り先開拓が、大きな仕事となってきそうだ。
写真は、家でアクセサリー作りをする生徒。
熱心に作成に取り組んでいる。

2009年8月13日木曜日

ペテペテの中で

  2009年7月18日(土)

ペテペテ(公共乗り合いバス)の中は、私にとって貴重な情報源。
今日も村からの帰りに、一人の女性に出会った。
ペテペテに乗ると、たいていの人が私の国籍、仕事などを聞いてくる。
まずはそこから、世間話が始まる。

ペテペテでマカッサルまで行く道中の話の中で、
彼女には中学生になる子どもが居るが、
お金がなく普通学校に通わせきれなかったという話になった。
どうして、中途退学したのか?と聞いてみると、
お金がないからだと言う。
すでに教育の無料化は始まっていて、この島でも遅ればせながら
制度が実施されている。
条件はあるが、その条件に該当する者できちんと申請さえすれば、
補助金が下りるようなシステムもあるのだが、
残念ながらそのことはあまり知られていない。
無論、ノンフォーマル学校(PAKET)の存在も知らず、
私の説明を珍しそうに聞いていた。

私の通っている村でもそうだったが、
情報があまりにも伝わっていない。

ノンフォーマル教育制度というものはありながらも、
一番必要である村人の多くは知らないままで居るのだ。
一般人にきちんと伝えることが必要であると強く感じている。

結婚式にはこんな服で参加



   


2009年7月16日(木)

親戚の結婚式へ。
今日は任地での結婚式用の服を着て、初めての参加。
親戚のあいさつ席に一緒に並び、来客にあいさつ。
いつも通っている村での結婚式だったので、
生徒たちも大勢参加し、にぎわう。

ちょっと照れくさかったけど、生徒たちに
「似合っているよ!」
と褒められ、嬉しかった!

1年目の振り返り

   2009年7月16日(木)
 任地での生活が1年経過したということで、
JICAの協力隊コーディネーターが上司と経過確認をしにやってきた。
自分の今までの活動を振り返る良い機会に恵まれた。
県の教育長は未だに私が日本から来たのか、韓国から来たのか分かっていない。
(そのくらい私には関心がなく、この1年話したこともほとんどない)
でも、この訪問のおかげで自分の活動をやっと説明できるチャンスに恵まれた。
毎月拙いインドネシア語で報告書を作成し提出しているが、
私の上司(課長)でさえきちんと目を通してはくれない。
それでも自分の活動の軌跡として、
文字にしながら自分自身も1ヶ月を振り返っている。
その報告書作成もすでに6回目となった。

 急に県の教育長がコーディネーターの訪問前に、
私に活動報告をするようにと言ってきた。
だから、準備を整え話し合うのを待っていたが、やはりその時間は作ってもらえず・・

 コーディネーターの訪問により、県の教育長初め配属先との話し合いの中で、
新たに活動内容として追加されたものがある。
① フォーマル学校での中学・高校での日本語授業及び日本文化紹介
② 教育局や学校教員に対して、日本の教育システムの紹介

①は、タカラール県の学校をインターナショナル校目指して、授業展開をしたいというもの
 ノンフォーマルPAKETCで日本語授業を行っているのを知った教育長が、
ノンフォーマルではなくフォーマルで授業を教えるようにとのこと。
②は、教育長たっての希望だが、実は以前配属課内で何度か行おうと企画していたもの。
  企画はしたものの、課内の人たちにあまり関心を寄せてもらえず、
プレゼンが開けずに歯がゆい思いをしたものだった。
今回は、教育長じきじきのお達しだから、きっと同僚も参加してくれるに違いない!

 今までは個人的にフォーマル学校をまわっていただけであったが、
これで堂々と巡回できるようになる。
入り口はなんでもいい。
現地の生徒と関われるきっかけさえあれば、自分の伝えたいことを伝える場ができる。
まだまだ中退者の多いこの地域で、正確な情報を伝えることの大事さを痛感している。
まだ学校に通っている間に、授業でPAKETの存在を伝えることは、
中退後もまだ学ぶ方法があるということを知ってもらえる良い機会となる。

午前中の退屈な事務所勤務も、学校訪問が加わり少し楽しくなりそうだ!

国の担当者訪問

    2009年7月15日(水)
 いつもの通りPKBMに寄りがてら、イブミナの家で昼食をとっていると、
もうすぐ国の教育局学校外教育課担当者が訪問に来るから、
ここにいるように、と同僚に言われる。
本当は最近毎日通っている生徒の家で、アクセサリー作りをする予定だったのだが
急遽そのお偉いさんとやらを待つことに・・・
 ジャカルタから来た彼らは、どうみてもお偉いさんという感じの雰囲気をただよわせ、
ちょっとPKBMに寄っただけで、訪問終わりということにしてしまった。
この訪問のために、現地ではいくつかの訪問先を用意し、
メンバーを集めて準備していたというのに。
その上、私の活動を見て、いろいろと質問をしてきたのだが
その内容一つに対しても、まずは担当であるあなたたちが考えるべきことではないのか?
というような質問ばかりされて、
久しぶりにイライラしてしまった。
 村での活動を見に来たはずなのに、きちんと現実を見ないで適当に済ませ、
きちんと向き合わなければならない問題をおざなりにしている。
私に対する質問は、そのままそっくりあなたに返したい質問です、と
私もつい言ってしまった。
 村の小さな問題かもしれないけれど、これが現実で、
それをどう改善していけばいいのか誰も分からないからこの状況なのだ。
そのことを、外国人の私に聞く前に、自分たちでなんとかしようという気持ちはないのだろうか?
タカラールの人に対してムカッと来ることのなかった私だが、
このお偉いさん方には本当に腹が立った。

現実に向き合ってもらえなければ、いつになっても現実は改善されないのだ。

ある生徒のその後

   2009年7月13日(月)
 私の生徒たちは受験が終わって、ひと段落。
久しぶりにみんなの顔を見に村へ行く。
生徒の一人が、とても熱心にアクセサリー作りを行っている。
今日は材料を持参し、引き続き家で作ってみないかと話を持ちかけてみた。

「作るのが大好き」
という彼女は材料を見るとその場で作り始めた。
彼女の作業の仕方は、一つ一つがとても丁寧だ。
クラスで教えていたときから感じていたこと。
彼女なら、品質の良い作品を作ってくれる。
彼女の家で作っていると、姉妹たちが集まってきた。
彼女は6人姉妹なのだが、みんな小学校までしか出ていない。
彼女はPAKETCまで学んだので、高校と同等の卒業資格を持つが、
姉も妹たちも、PAKETの授業に行くのは気が進まないということで、
みんな学校には行っていないのだ。
だから、時間はたくさんある。
午前中は家の手伝いをし、午後はのんびりしているそう。

他の姉妹にアクセサリー作りを一緒にやろうと誘ってみたけれど、
「難しそうだから!」
とやる前から恥ずかしがって、結局今日は彼女の作業をみんなが見ていた感じ。

でも、彼女のやる気が嬉しい!
何より、楽しんで働いてくれる姿が嬉しいのだ!

先輩隊員に感謝!

   2009年6月28日(日)
 作ったアクセサリーを何とか販売できないかと、あれこれ考えている。
まだまだ品質に改善の余地はあるが、
少しずつかわいくてよい作品ができ始めている。
試作品を先輩隊員に見てもらったら、
帰国のみやげに買ってあげると、予約注文をいただいた。
 こんな風に活動が展開するとは予想していなかったが、
このきっかけを大事にしたい。
当初は現地での販売のみを考えていたが、
日本人向けにも考えてみるつもり。
ここに居る間に、販売ルートを確立するまでできたら最高だ。

 まずはいい商品を作って、
村の人が収入を得ることができるように
自主的な運営ができるように
アドバイスしていくつもりだ。

少しずつ、私の活動が進んでいく手ごたえを感じている。

2009年8月12日水曜日

結婚シーズン到来





   2009年6月27日(土)
 乾季になって、結婚式が県のあちこちで見られるようになった。
村への移動でペテペテ(公共乗り合いバス)に乗っていると、

通りのどこかでパーティーが開かれているのにほぼ毎日のように遭遇する。
大通りを占拠して、通れないこともしばしば。
結婚式は最優先されるようで、一般道にまたがって結婚式が開かれる場合は、
運転手はみな迂回をしている。
家の庭を使って、200席ほどのいすが置いてある。
きれいに飾り付けられていて、そこを通った人たちが
『今日は結婚式なんだね!』
とペテペテの中で噂話になるほど。
「公共の場所をこんな風に使って!」
などと文句を言う人は、誰も居ない。

この地域での結婚式は、3日にわたって行われる。
初日・・・結婚式前夜は、『パッチン』と呼ばれ、新郎新婦それぞれの家で、

     両親や親戚とのお別れの式。

     両親や親戚の涙に見ているこちらも胸が熱くなる。
2日目・・・結婚式当日。日本でいうところの披露宴のようなもの。

     新婦の家で行われる。お昼頃から、夜中の12時頃まで延々と行われる。
     その日は舞台が設置され、エレクトーンの伴奏と共にカラオケ大会が始まる。
     村では、見物客でにぎわっている。
     露店バイクのおじさんたちも、しっかりとここで物売りを始める。
3日目・・・新婦を新郎の家まで送り、新郎の家で2日目と同様のパーティー。

この3日間は、とても盛大に行われる。

 写真は私の通っている村での結婚式。
花嫁はPKBM(学習センター)のすぐ隣の家の人で、とても仲がいい。
是非にと招待を受け、参加することになった。
とてもきれいで、いつもの彼女とは見違えるほど。

今日の宿泊先であるイブミナ(6・27パサールでの買い物の人)の家は3件くらい隣にある。
イブミナは朝から手伝いに行ったきり。
私も午後からは料理の手伝いをしに行く。
近所の主婦たちが集まり、ワイワイ賑やかに話をしながら
野菜の皮をむいたり、切ったりしている。
こういう時間に一緒に居られるのが、とても好きだ。
いわゆる世間話だが、話題は多岐にわたっている。
彼女たちは、現地語のマカッサル語を使うので、
まだ勉強中の私は話題についていけないことも多いが、
ちょっとだけ内容が分かったりすると面白い。
途中で主婦の一人が私のために話の内容をインドネシア語で訳してくれたりもする。
ありがたい。
時々、私のことも聞かれたりして、
日本の様子や日本の家族のこと、日本の四季などについて話をする。

結婚式は、それをとりまく人々にとっても賑やかで楽しい儀式。
親戚・近所総出で準備をする様子は、私の田舎にちょっと似ていた。
今回は、準備から3日間ずっと間近に見ることができたので、
タカラールの文化を知るよい機会になった。

やっぱり、村での生活はおもしろい!!

2009年8月9日日曜日

パサール(市場)での買い物





      2009年6月27日(土)
現地の人の買い物に同行。
私の家のイブは、私が仕事に行っている間にパサールに行くため、
家の人の買い物に付き合ったことはなかったので、
イブミナ(村に行くとお世話になっているおばあさん)の買い物に付き合って、
はじめて現地人の買い物の仕方を知る。
 店でごった返しているパサールの中をかき分け、
手際よく買うべき品物を品定めし、購入している。
このパサールには何度か足を運んでいるが、
毎回見学といった感じで、大量に買い物をしたことはなかった。
だから、こんなふうに現地の人がいろいろと買い物するのを
初めて見たのだ。
大混雑の中を、するすると人だかりをすりぬけて
目的地に移動する。
購入の際には、値切り・おまけを必ずもらう。
主婦は、国を問わず力強いものだ。

 パサールに行くと、その地域の暮らしがよく分かる。
日々の暮らしというものの、奥深さを感じる。
活気があり、『人は生きている』というのを、感じられる場所だと思う。
パサールでの買い物に、パワーをもらったといったら、言いすぎだろうか?

家に戻ったイブミナは、いつもの優しいおばあさんに戻っていた。
パサールには、『生きる力』があふれている。

最近の活動



4月から、生徒たちに教え始めたアクセサリー作り。
写真は現在通っている村の生徒たちだ。
そもそもは、授業に教員が来ないという問題があり、
教員の来ない授業時間を無駄にしないために、
補教授業としていろいろ教え始めた。
その中で生徒たちが興味を持ってくれたのがこのアクセサリー作りだった。

編み方の練習から始まったのだが、

毎日通ってくる生徒はどんどんうまくなっていった。
うまくできた生徒は自分で持ち帰り、
近所の人に売り始めて2ヶ月になる。
まだまだ試作の段階ではあるが、
作ったものが売れるのは嬉しいようで、
生徒の何人かはかなり気合を入れて毎日作成している。

この生徒たちは先日の試験を受け、PAKET Cは卒業見込みだ。
でも生徒全員が、学校を卒業しても仕事がないという。
このままぶらぶらと、日々過ごしていくのだろうか?
『仕事はどうするの?』
と聞いても
『仕事はないから、家に居る』
というのが、生徒の声。

それでも生活ができてしまうのだから、
どうなっているんだろうなァ・・・
と、外国人の私は考えてしまうのだった。

仕事をする楽しさを何とかして伝えたいものだ。

作品の成果



    2009年6月27日(土)
いつもお世話になっている村のイブミナの家に宿泊。
お手伝いで、村からパサールへ一緒に行く。
そんなペテペテの中。

向かいに座った男の子の左腕に注目!
なんと、私の生徒たちが作ったアクセサリーをしている!!

4月から授業で村の生徒が作り始め、
できた作品を売り始めたのだが、実際に生徒以外が身に着けているのを
みるのはこれが初めてだ。
思わず子どもに声をかけ、誰から買ったのかを聞いてみる。
一生懸命毎日新作品を作っていたある女の子から買ったようだった。

気に入ってくれているようで、毎日身につけているとの事。

こうして実際に売れて、身につけている人を見るのはこんなにも
嬉しいものなんだなぁ・・・!

生徒たちに見せたいと思い、写真をとらせてもらう。
生徒たちはきっともっともっと、喜ぶに違いない!

ujian national試験当日



       2009年6月25日(木)
23日(火)~26日(金)の4日間にわたって行われる試験。
ノンフォーマルの生徒約450人。フォーマルの生徒約120人。
県内で、総勢600人の生徒が受験をしている。
今日で3日目が無事終了した。
試験は午後1時から5時まで2教科ずつ行われる。
とはいえ、日本のように時間きっちりに始まるわけではない。
試験官・受験者ともに、遅れてくることもしばしば。
そのうえ、この国ならではの難しい現実がある。

日本人として、不正行為を見逃すこともできないし、
その手助けをすることは許しがたいわけだが、
この国の現状はそうなんだと言われると、
おかしいと思うし悔しいけれど何もできない。
そのたびに、日本ではこのことは許されないことだ。
と日本の常識を話し、
また、この国の文化も理解しているから、仕方がないことだとは思っている。
というようなあいまいな返答をしている。
でも、その不正の行われている空間に居るだけでも、罪悪感がかなりある。

何のための試験なのか?
慣例として行っているだけなのか?
本当に必要があり、行っていることなのかという疑問がある。

自宅に帰ってから、同僚であり、ホストファミリーであるSakriに少し話してみる。
この試験自体に、賛否両論あるという。
任地のような田舎では、都会のような教育レベルにはまだ達していなく、
それなのに全国共通で行われるこの試験は、
やる前から不利なのだと。
だから、教員が助けてあげなくてはかわいそうだ。
という主張だ。

教育の複雑さは、国自体を複雑にするのかもしれない・・・
何のための試験なのかを問う国民は、どこかにいるのだろうか?

2009年7月2日木曜日

インドネシア生活1年経ちました!



     
2009年6月23日(水)
インドネシアに来てから
今日でちょうど1年が経つ。
日本からジャカルタへ。
まだ見ぬ任地生活に
想いを馳せながら、
ワクワクしながら来たのだ。

 
任地での暮らしは生活となり、
いまではすっかりここでの生活にも慣れた。

限られた2年間という時間の中で、
何ができ、何を残せるのかはまだ分からないが
精一杯できることをやっていくしかないと
感じている。

いつも応援してくださっている
多くの方々に感謝をし、
あと1年を無事に元気に過ごしたいと思っています。
このブログを見てくださっている方々、
いつもありがとうございます。
*写真はいつも通っている村の夕陽です。

生徒の一生

     2009年6月22日(月)
明日がノンフォーマルの生徒対象の試験。
教育局で仕事をしていると、一人の先生がやってきた。
フォーマルの学校の先生で、受験に落ちた生徒の受験願いを持参してきたのだ。

試験前日に持ってきても、間に合うはずがない。
配属先では先週の金曜には締め切り、同僚は金曜の午後に州の教育局に持参。
州の教育局で受験票が作られ、今日配布されているという次第。
いまさら何でもってきているのだろう・・・というのが最初の感想。
 小さい学校のようで、再受験の生徒は2人。
この課から学校への通達があったのが木曜の午後で、
すぐに生徒に準備をさせたが、校長が学校に居なくてサインがもらえずとかなんとか・・・
結局金曜には用意できなかったとのこと。
教育局の同僚は、『もう間に合わない。おそすぎた』
と一言。
生徒は明日の受験資格を失った。
この生徒がもし、進学が決定している者だとしたら、
今回受験できないことで、自動的に進学は断たれてしまう。
次の試験は11月。
それまでこの2人の生徒は進学も、仕事もできないのだ。
今回のことは、受験に向けてのシステムの問題であり、
何事もギリギリに行うこの国の慣習が災いしていると思う。
例えば、明日の朝ある会議の通達が、前日の夕方にまわっていきたりする。
だから、その分『急で準備できなかった・参加できなかった』という
言い分が認められてしまう。
常々この体制には日本人として疑問を感じてはいたが、
今回のことは、生徒の将来もかかっているのでは・・・と思うと気が気ではなかった。
同僚に話してもらちがあかないので、上司に話すように促したのだが、
結局先生は全く関係ない同僚(この課の者ではないのになんとなく居る人)に
切実に訴えていたりして、どうにもならない。
最後には、次回の試験を受けさせますといって、帰ってしまった。
何とも後味の悪い思いである。

 日本では、受験に対してかなり教員も親も生徒も敏感に対応する。
教師のミスで受験ができないなどということは、決してあってはならないこと。
どんな思いで教員が生徒に説明をするのかと、
同情の思いでいたが、ここでは生徒の一生を左右すると言うほどの
大きな問題としては捉えられていないようだ。

 教育局内で、この話をいくらしても
『締め切りは過ぎたから・・・』
と一言で済ます同僚。
合格発表から今まで資料の準備をする時間はあったはずなのに
先に準備をしておかなかった学校の先生。
願書締切日の前日に各学校へ願書受付の通達を出す教育局の体制。(私の課の仕事)
どれも、ちょっと気を回せば回避できそうなものなのに、
そういう点に配慮しないのが、この県の発展を遅らせているのだー!
と、悔しいやら情けないやら。

 勤務先では誰も相手にしてくれないので、
家に帰ってイブに今日の出来事を話した。
知識人であるイブは、
『誰も責任を持とうとしないのね。
本当はそれぞれが責任を持って働くべきなのに・・・』
と言っていた。
そうなのそうなの!とは思うものの、
実行に移すことのなんと難しいことか。
目先の面倒くささに煩わされ、面倒だからと適当に仕事を片付ける人たち。

日本人として、それはちょっと・・・!
と思う場面にでくわすたびに、
任地の人になんと説明をしたら分かってもらえるのか?
と悩みつつ、伝わらない言語を駆使して説明をするのだった。
この生徒の将来は、どうなってしまうのだろうか・・・

試験1週間前

    2009年6月16日(火)
いよいよ、私の担当していた生徒たちの
卒業資格認定試験(UJIAN NATIONAL)ノンフォーマルの生徒用試験が来週に迫ってきた。
 インドネシアでは、全国統一でこの試験(UJIAN NATIONAL)が年に1回行われる。
この試験は卒業のための試験ではなく、次の学校に入るための資格取得試験だ。
この試験に合格しないと、中学校は卒業したものの高校に入学できないということになる。
正確には、フォーマルの学校生徒対象にこの試験が行われ、試験に不合格したものは再度ノンフォーマルの生徒の受ける試験を受験する。
どちらの試験に合格しても、資格取得の価値は同様。
フォーマルもノンフォーマルも、合格の時点で同じ証書がもらえることになる。

私の生徒たちは、ノンフォーマルの生徒用の試験を受験する。
今日はちょうど1週間前。
生徒たちのほとんどが登校。
(一度も会ったことのない生徒も居てびっくり!!)
今日は、マークシートの塗り方の説明。
マークシートでの回答は、UJIAN NATIONALでしか使う機会がないようで、
慣れていないため、塗り方一つも慎重だ。
日本と同様、
きちんと枠の中をきれいに塗りつぶすこと、
同じ行に2つ塗りつぶすことがないように間違えないこと
解答欄を間違えないこと

などの念を押し、一人ひとり練習用の紙に塗っているのを見て回る。
この時点になっても担当教師は出向かず、
結局郡の担当者が説明をしている。
そもそも役割分担がこうなのかもしれないが、
試験前の生徒が心配じゃないのか!!とつい文句をいいたくなってしまう。

この試験が行われるのをみるのはこれで2度目だが、
どう考えても、PAKETの生徒が受験するには問題が難しすぎ、
自力で解ける問題はほぼないといってよい。

生徒たちは合格できるだろうか・・・?
と真剣に私に訴えてくる。
日本ならば、
『自分のやってきたことを信じて、あきらめずにガンバッテ!』
なんて言いたいところだが、
ここの生徒たちはろくな授業も受けず積み重ねもないものだから、
何とも励ましの言葉が見つからない。
いまさらながら一生懸命出題範囲を書き留める彼らに、
無駄な苦労だということもできず、
かといって、的確なアドバイスをすることもできず、
とにかく一緒にいるだけしかできない私だった。

教育って何だろう?
当たり前に日本の教育を受けてきた私には、
ここでの教育のどの点を見直していけるのか、
課題が多すぎて、困惑している。

2009年6月26日金曜日

孤児院の生活




   2009年6月14日(日)
 タカラール県にある孤児院。
数ヶ月前から通っている。



25名の子どもたちが居て、ほとんどが小学生。
仕事の合間に通うので、定期的には行けないのだが・・・
ジャカルタにしばらく行っていて会えなかったので、
みんなに会ってきた。



たまにここに行き、子どもたちと遊んでいる。
とても貧しい施設で、
敷地も心ある人から借りたものらしく、数ヶ月前にこの場所に
引っ越してきた。
前の敷地のときから訪問したいなと思いつつ、
なかなか訪問する勇気が出ずに半年くらい過ぎてしまった。



行ってみると子どもたちは歓迎してくれ、
毎回おりがみやレクゲームなどをして過ごしている。
今回は、こどもたちとお菓子作りに挑戦しようと、
材料を持って遊びにいった。

 この子たちのご飯は3食インドミー(インスタントラーメン)とごはんだけ。
たまに揚げ魚がでるのがごちそうだそう。
とても貧しい食生活だ。
栄養失調にならないのかと心配だが、何とかみんな元気にやっている。
この施設は国や県からの補助もなく、
いわゆる私立だが、経済状況は厳しくいつ閉鎖しても仕方ないという
状況のようだ。
通い始めた当初は、ここを運営している所長のような人から、
日本から援助が欲しいと何度も言われ、その都度断ってきた。
援助目当てで孤児院を開く人も多いと聞くからだ。
他の県の孤児院では日本からの援助でかなり潤っていると言う。
トラック何台分も、孤児院に物資が運ばれてくるそう。
それが私にもできないのか?というのが、
通い始めてしばらくは毎回話になった。



 その度に、
『そういう援助はできないけれど、子どもたちと遊ぶことはできる。
 それでもいいなら、ここに来たい。』
とはなし続け、こうして通うようになったのだ。

 この施設ではおやつタイムなんてもちろんないから、
今回は一緒にお菓子作り→おやつタイムの実現。
お菓子も、インドネシアの一般的な揚げ菓子を一緒に作ってみた。
女の子が中心となって、生地づくりや丸めたりする。
男の子は最後の仕上げの揚げる作業を受け持つ。
ワイワイにぎやかにお菓子作りがすすみ、
完成!
 
できたお菓子と紅茶でおやつタイムの始まり始まり・・・!
未だに子供たちの名前を覚えられずに苦労しているが、
楽しい雰囲気を味わってもらえたようだ。
子どもたちの協力性もなかなかのもので、
きちんと役割分担して、作業をしていた。

 魚をあげるのではなく、魚の釣り方を教えるのが
国際協力だと、よく言われている。
この子達も中学校卒業と同時に、この施設から出るそう。






少しでも、生きるための技術をつけて
この施設から出られるといいと思う。
そのために、少しでも私で役に立つことを探しながら、
ここに通っている。

任地生活に戻りました!

    2009年6月11日(木)
 約10日ぶりに任地へ戻る。
やっと、帰って来た!
今回ほど、早く任地に戻りたいと思ったことはない。
マカッサルの空港(ハサヌディン空港)について、ほっとする。
空港からタクシーに乗って運転手のおじちゃんと話をするにつけ、
帰ってきたー!という実感が湧いてくる。

やっぱり、任地はいい!!
今回は結構長く任地を空けていたので、
帰ってくると家の人たちが大歓迎してくれた。
イブに抱きしめられて
『やっと帰ってきたね!』
と言われると、
わたしもほっとした気持ちになった。

久々の我が家はとってもにぎやか。
子どもたちは遊んでとまとわりつき、
家の人たちからはジャカルタ生活がどうだったのかと質問ぜめにあう。
ジャカルタでの生活を報告するかたわら、
こうやって話を聞いてもらえるありがたさを感じた。

いろいろと重なり、ちょっと疲れ気味のジャカルタ生活だったが、
またいつものペースをとりもどせそうだ。
もうすぐインドネシアに来て1年が経つ。
この暮らしが私にとってすっかり日常となっている。

ジャカルタにあるキャンプ場





     2009年6月9日(火)
 1500人程の中学生のキャンプに環境系の隊員を中心に参加。
参加者はインドネシア人だが、クリスチャンの学校ということで中華系が多い。
2泊3日のキャンプで、大賑わい。

中心となる大きな広場にさまざまなブースがあり、そこでいろいろなワークショップを体験するのが、主な昼間のプログラムだ。
昔の遊び・中国の切り絵を作ろう!・絵を描こう!・割り箸で模型作りなどなど。
イメージとしては、キャンプの仕事で何度も行った企業の納涼祭や運動会などでのワークショップや、



デパートのイベントでやった染め物講座とか、そういう感じの雰囲気。
参加者が自由に行き来しながら、やっていく。
その中のワークショップのコマの一つとして、環境について行ったのだ。

内容はゴミの分別について。
まだ子どもたちの生活でも一般化していない、ゴミの分別。
隊員がインドネシア語で説明をしていく。
3日間、炎天下の中行われたわけだが、
久しぶりのキャンプとウキウキしていた自分とはうらはら。
自分の反省点も多かった。

・まずは、体調を崩していたこと。
キャンプ場では、どんなときでも子どもたちの前では元気で居ること
が鉄則なのだが、
数日前からの体調不良と暑さに負けてしまい、全然動けず。
頭の回転も鈍り、子どもたちの動き・先読みができない・・・
こんなキャンプの基本が満足にできないなんて・・・とかなりへこむ。

・ 言葉が通じない?
子どもたちと接するのだから、言葉が通じなくても何とかなると思っていたのは大間違い。ジャカルタの子どもたちは体も成長も大人で、任地の子どもたちより大人びていた。
-これが都会の子か?
賑やかに楽しく・・・というより、静かに説明を聞く。
こんな生徒を任地で見たことがなかった!
任地の子どもたちはノリが良く、たわいのないことでもすぐに盛り上がる。
そんな中学生をイメージしていたのだが、
ここでは大違い。
この子達の気持ちを盛り上げ楽しい気持ちにさせるのは、本当に難しかった。
いつも少人数を相手に活動をしているので、
こんな風にクラス単位の子どもたちに説明をする機会がなく、
指示をする言葉や、環境用語など、全くインプットされていない。
その上、ジャカルタでずっと日本語を使っていた分、インドネシア語が出てこない。
言葉が出てこなくて、楽しい雰囲気も伝えられない。
その上、私の任地の言葉はかなりの方言。
日本でいえば、外国人が標準語ではないのをしゃべっている感じらしい。
つまり、かなり変?!

キャンプでは、雰囲気や間を大事にする。
だから、その雰囲気づくりをどう行うかで子どもたちとの関係作りがかわってくる。
短い時間での関わりだからこそ、インパクトと関係作りが大事。
何気ない話からも、関係作りはできる。
そう思っていたのに・・・

言葉の壁は大きかった。
任地での生活では、相手が私の話し方に慣れている分、
不完全でも不自由を感じずに過ごせた。
もちろん、うまく伝わらなくて歯がゆい思いをすることは日常茶飯事だが、
それでも誰か理解してあげようと思ってくれている人がいて、
その人を介して話ができていたのが、任地での生活。
 ここでは、話がつながらない。広がらない。

いい経験にはなったが、残念な気持ちも大きい。
せっかく異国でのキャンプだと言うのに、
せっかくの日本の経験を生かすことができなかった。

せっかく楽しみにしていたキャンプ場での宿泊も、
体調不良だったので毎日通った。
もう二度とない体験かもしれなかったのに、
惜しいことをしたものだと、残念でならない。

とはいえ、インドネシアのキャンプ場に行けた事はおもしろかった。
任地の人も知っている、キャンプ場では有名な場所らしかったから。
帰ってからも、きっと任地で話のタネになるに違いない。

使っていたテントは旧式のものだったが、きちんとペグでとめていないので、
初日に強風と雨におそわれた時は、
テントが飛んでいってしまうような勢いだった。
私のキャンプ場では、絶対におろそかにしてはいけないと指導されているものだから、
こんな風に今にも飛びそうなテントに遭遇したことはなかったが、
怠るとこうなる!という見本のようなテントを間近に見て、
直しながらも一人で笑ってしまった。
子どもたちのテントだが、下にシートのようなものを敷かずに
直に荷物を置いていたようで、雨で地面が濡れるとテントにも浸水してきてしまい、
夜はびちょびちょで眠れなかったそう。
『テントで寝るのはイヤ!』
という声には、この状況ではもっともだと同感してしまった。
私のキャンプ場でのタブーがここではたくさんあり、
怠った結果まで、この目で見てしまった。

インドネシアの子どもたちが、キャンプ嫌いにならないといいけれど・・・
インドネシアでは、ボーイスカウトのような団体が多いようで、
キャンプは身近なもののようだ。
(任地ではあまり聞いたことはなかったが)
任地の村では毎日がキャンプ生活のようなものだから、
キャンプの目的や意図するところも、日本とは違ってくるだろう。

 いい経験となった3日間だった。

ゴミ最終処分場



     2009年6月2日(火)
 ジャカルタにある、ゴミ最終処分場見学。
インドネシアのゴミ問題は深刻化していて、JICAでも環境隊員の派遣を増やしている。
この処分場も、あと数年で満杯になってしまうとか。
1日6000Tのゴミが、ジャカルタ近辺から運ばれて来るそうだ。

日本のことも詳しく知らないので、内容はさておき
このゴミの山に登ってみた。
このゴミの山の四方八方に同じようにゴミの山がある。
見渡す限り、ゴミ・ゴミ・ゴミ。
処分場というのは、こんなものなのかもしれないが
日本で見たことのなかった分、衝撃は大きかった・・・

 このゴミの山の周りには、ぼろぼろの服をまとった人たちが、
ゴミの中から再利用できそうなものをあさっている。
その多くはプラスチックやビニール袋で、
リヤカーいっぱいに荷物を積み運んでいる。
日本に居たころテレビで、
海外のゴミの山に住む人たちーなんていうのがやっていたのを
みたことがあったけれど、
本当にこうして生活が成り立つ人がいるのだ。

と、通りがかりに働く人たちを見て感じた。


もちろん毎日この人たちの生活をみているわけではないので、
日々の暮らしをどうしているのかは分からないが・・・
 
この処分場があるだけ、ましなほうだ。
マカッサルにもこのような処分場があるとの話だが。
大体任地では、ゴミを回収するシステムさえないのだから、
ゴミが村に放置されていたり、川に投げ捨てられていたりという現状が
改善される日はいつやってくるのか・・・
まだまだはるか遠い日の話なのかも・・・

とはいえ、これもまたせっかく知った現実なので、
何らかの形で勤務先の同僚に伝えていこうと思っている。
(きっと『知っているし、分かっている』というのは目に見えているが・・・)


それでも伝え続けていくことで、何か心動かせるものがあるかもしれない・・・
と、思う。
それを頼りに活動していこう!

リサイクル工房






       2009年6月1日(月)
 環境隊員たちとともに、ジャカルタにある工房へ。
ここでは、バックや財布、手帳ケース、かさなどを作っている。
その材料と言うのが、服や手洗い用の洗剤、お菓子の袋などだ。
日本でいう、詰め替え用の液体の入っている袋。
使用済みのものを集め、リサイクル品としていろいろな小物が出来上がっている。
日本でもこのようなリサイクル品が販売されているのを見たことはあったが、
こうしてこの国で使用されているビニールが
製品化されているのは妙にリアルであり、
こういった商売が実際この国で行われていることも、意外だった。

 まだ、リサイクル化が一般化されていないこの国では、
先駆的な活動になるのだろう。
この工房を始めて数年との話。
工房には数人の職人が居たが、この人たちも安定して給料が支払われ
毎日働く場所が提供されているのも、うらやましい限りだ。
とはいえ、ジャワではこのような会社形態はすでに一般的なのかもしれない。

 任地ではこんな風に雇用形態の整った?生活ができる人たちは
ほとんど居ないので、すごく驚くことばかりだったが・・・
それくらい、インドネシア国内でも経済格差があるということだ。
まだまだ私の任地では、仕事のない人で溢れている。

 月給制で当たり前のように暮らしてきた日本の生活からは
想像できなかったことだが、だからこそ今は、毎月一定収入を得ることができる
日本って、先進国なのだなぁ・・・と感じてしまう。
日本人にとっては当たり前のことだが、
ここに居ると、日本がいかに進んでいるか?ということを
感じずにはいられない。

隊員総会




      2009年5月31日(土)
 総会のため、再びジャカルタへ。
赴任したばかりのときは、都会へ行けること・同期や他隊員に会えることが
楽しみだったが、任地での活動も動き始めているせいか、
今は任地を離れるのが惜しい気がしている。
そんな、後ろ髪を引かれながらこれから約10日間ここで過ごす。
ゆっくりのんびりしたいところだが、
今回はそうはいかないようだ。

タカラールにある島ータナケケ島へ







     2009年5月29日(金)
 ずっと気になっていた島。
私が今通っている郡にある島だが、
郡にある船着場から約1時間かかる所で、
教育局の人たちもほとんど行ったことがないという僻地。
何度か「行ってみたい!」と上司や同僚に話してみたが、
「高波で危ないから!」「本土の人はほとんど行かないから」
という理由で、今まで行かせてもらえなかった。

 今回、JICAの別のプログラムで視察に行くことになり、
一緒に参加することができた!
通いなれた村の、船着場から出発。
村人には、「気をつけなさい!」「本当に怖くないのか?」
など、さんざん注意&引き止められつつ、舟に乗る。
日本でいう小型ボートか?
海釣りでよく乗ったものと同じタイプ。
5人も乗れば満杯になってしまうようなボートだが、
現地の人はこの舟に10人以上乗るらしい・・・

 島は思ったより大きく、2つの村に分かれていて、
別の村に行くには陸路ではなく舟を使うらしい。
今回主に4箇所を移動したが、すべてボートでの移動だった。
初めに行ったのが、村の識字教室。
この村では、県の支援がまだないためNGOが支援しているとの事。
そのNGOを支援しているのがJICAということになる。
だから、このNGOの活動内容を視察するのが今回の目的。

タカラール県では、非識字率(文字を読んだり書いたりできない人)は
20%~30%といわれており、2010年までにこれを0%に
近づけるよう、配属先は取り組んでいる。
本土では、私が赴任してきたときよりすでに驚異的なスピード?で
既学習者を増やしているのだが、
授業内容他をみると建前の部分が多く、
実際に村人がどれだけ学べるようになったのか?
という点においては疑問が多い。

 この村に行って驚いたことは、
ここでの非識字率は70%ということ。
この村で、学のある人がこのままでは・・・
ということで、NGOの協力の下識字教室を開いたという。
 はしくれとはいえ県の担当者?としてその場に居た私は、
こういう状況を知らずにいる自分や同僚に対して、腹が立った。
(知っているのかもしれないが、ほおっておいている状況?)
島に行かないのだから情報は何もなく、
だから改善されることもなく、村人が置き去りにされている。
島の生活者にとって、
本土に渡ることがなく一生を終える人も多いということだけれど、
だからと言って読み書きができないまま
一生を終えていいということではない。
 この事をきちんと伝えなければ!!と強く思う。
上司がどんな判断を下すのかは分からないけれど、
知った以上は責任がある。
うまくいえないけれど、この現実を通して
「生まれてきた環境の違い」の差の大きさを感じている。
 この1年県内をぐるぐる回っていた私は、
大まかな県内の状況や郡の状況の把握につとめていたのではあったが、
配属先や郡の担当者に連れられる私の行動範囲はすごく限られていて、
まだまだ私の見ているところは表面にしかすぎないのだと、
自分の力ではどうにもできない現実に直面した感じだ。
でも、知ったからには何とかしたい!
何かできるだろうか?
すごく考えてしまった・・・・

 ところでこのNGO(インドネシア)は多方面の取り組みを行っており、
水のタンクの取り付けや、島の収入源である海草の援助、
保健所に対しての指導や、手の洗い方講座などなど。
10種類以上あるプログラムがどう行われたのかを
村人に直接話を聞いたり、実物を見たりした。

プログラムの内容はさておき、分かったことはたくさんあった。
島では海水以外の水を確保することが難しく、
このタンクがあることで、水を売るという商売が成り立つ。
このタンクのある集落の人には無料で使用させ、
他の村の人たちからは少しだけ(日本円で1L3円位)お金を取るそうだ。
これで、このタンクの維持管理費をまかない、生活に役立てるとの事。
 この村にこのタンクがあることは、とてもありがたいとの話。
 
 県の手が届かない所は多く、こうした支援も入るのだが
知ってしまったからには私も何かできることをしたい。
帰ったらまずは同僚にこの現状を話してみよう・・・
自分の目で見たことをきちんと伝える以外に、今はまだ方法が浮かばない・・・

絵を描くという仕事



    2009年5月25日(月)
写真は毎日通っている村にある学校。
この学校は、障害を持った子のための学校だ。
午前中はこの学校の生徒が授業。
午後はPKBMの生徒たちがこの教室を借りている。
私は3月からほぼ毎日ここに通っている。
午前中からここに来られるときは、
PKBMに併設されている幼稚園の生徒と遊んだり、
この学校の生徒と遊んだり。
午後からは、PKBMの生徒たちと授業を行っている。

今日学校に行くと、
この校舎の壁面に絵を描く仕事をしている人がいた。
淡々と絵を描いている。壁面いっぱいがキャンバスで、
見事な筆さばきだ。
聞くと、このあたりの学校中の壁に絵を描いているそう。
給料もいいらしい。
やはり、手に職を持っている人は強い。
この現地生活では、手に職のある人はしっかり働いている。

《手に職を持つ》ことは、訓練学校・専門学校もろくにない
この地では、なかなか難しいことだが、


こうして収入をきちんと得ている人もいる。

2009年6月11日木曜日

初ダイビング



    2009年5月21日(木)
 水は怖い。海は怖い。
ずっとそう思っていたから、どんなに友達にすすめられても
チャレンジしなかった、ダイビング。
なぜ潜ろうと思ったのかというと、

こんなダイビング天国の国に派遣されたこと
ダイビングの大好きだった友人の世界を見てみたかったこと
海の世界に興味が湧いたこと
一緒に潜る仲間が居たこと

チャレンジしてみたい気持ちと怖さが半分ずつ。
そんな中、ついにダイビング免許をとることになった!

 インドネシアの祝日を利用して、バリ島へ。
宿泊先もなつかしのSANUR(サヌール)
久々にまた日本の友達を思い出したりしながらの旅。
 ダイビング好きだった彼女が見た世界を
私も垣間見れたように思う。
私もはまってしまいそうな予感・・・

 いろいろと書きたいことはたくさんあるが、うまく言えない部分は省略。
海の世界を知って、感動!!って言葉をかみしめる。
胸がドキドキして、もっと!もっと!とつい夢中になってしまった。
そこには写真の中の世界が、目の前に広がっていた。

 練習ではうまくいかないことも多かったけど、
その都度インストラクターに教えてもらって、総合的には楽しかった!
命のかかる遊びだから、慎重に・慎重に
でも楽しく!というところが、どこかキャンプと通じるものがある。
海の中での技術講習でうまくできたときに
インストラクターと握手を交わす。
その瞬間がとてもうれしくて、うれしくて・・・
そんな感覚も、キャンプ以来だったような気がする。

 インドネシアではあいさつ代わりに握手をするが、
昔から気持ちのこもった握手には、なぜか涙が出そうになる。
自分と相手だけが通じる瞬間。
キャンプの終わりに、握手をする瞬間が重なる。
キャンプの終わりに、自分から手を出すことができずに
大事な握手を逃してしまったことなどを思い出したりして・・・

 気の合う仲間との旅
新しい世界に出会った心地よさ
新たに感じる確信めいたもの

いろいろなことを感じさせてくれる海の中だった。
海の中の世界。
もっともっとのぞいてみたくなった。

赤ちゃん誕生

       2009年5月7日(木)
上司の家で、4人目の子どもが生まれた。
インドネシア人の奥様方はみな体格がいいため、
妊娠したの?なんて聞いてもただの太りすぎだったりすることはしばしば。
私の上司の奥さん(元同僚)も同様、妊娠中だとわかったのは
8ヶ月を過ぎた頃だ。

 任地では、子どもが生まれ1週間も経つと、
Hakekat(ハキカ)と呼ばれる赤ちゃんの名前をつける儀式及びパーティーが執り行われる。
家に大勢の人を呼び、盛大に行うのだ。
男の子ならヤギ2匹、女の子ならヤギ1匹を絞めパーティーで振舞う。
妊婦さんの入院は出産日のみで、1泊するとすぐに家に帰ってくる。
だんなさんは子どもがうまれると職場に出勤しないでよいのは暗黙の了解のようだ。
子どもが生まれたので仕事を休むというのは、正当な理由らしい。
上司のニコニコ顔が、やけにまぶしい。
インドネシア人の、感情の豊かさにはうらやましいものがある。

ジャカルタ生活開始!





         4月26日(日)
 6月にある隊員総会の準備で、ジャカルタへ。
これから1週間、任地を離れジャカルタ生活。
任地生活に慣れた私にとって、
ジャカルタは大都会過ぎて、いつ来てもキョロキョロしてしまう。
都会の生活には、なかなか慣れない私だ。

生徒の家に宿泊

    4月22日(水)
 4月からは、時々村の家に泊まっている。
今回は、生徒の家に初宿泊。
生徒とはいえ、年齢は近く(私のほうが少し年上だが)
しっかり者の彼女にはいつも生活指導?をされている。
―道ははじを通りなさい。
―忘れ物をしないように、全部持ち帰りなさい
―インドネシア語をもっと勉強しなさい

などなど。
村に行くと、彼女の家に滞在することが多いので、
最近はいつ行っても家の人が心良く迎え入れてくれる。
一緒に授業を行ってから、そのまま彼女の家へ。
 この日は夕食を食べてから、村で行われる結婚披露宴?に参加。
村の大通りに面した家で行われたため、
道を通行止めにしながら、村総出のお祭りのよう。
露店のようなもの(オートバイで売りにきている)まで出てしまい、
それはそれはにぎやか!
 ほとんどの生徒が来ていて、声をかけてくれる。
授業にほとんど参加していない生徒にも会ったが、
「せんせーい!」
とくったくなく、遠くのほうから声をかけてくれる。
「元気?たまには学校においでよー!」
なんてこっちも声をかけながら、ついでに家族の人にもあいさつしたり。
 一人でこんなところに居たら、外国人というだけで心配になるところだが、
私が生徒たちと村を歩く姿はもう村人も見慣れているらしく、
知らない人たちからも名前を呼ばれたりして、
なんとか違和感を感じずにここに居られるようになった。
もちろん、生徒たちが最新の配慮を配ってくれていて、
「はぐれないように、ここに居て!」とか、
「○○ちゃんと一緒にいるんだよ」
などと、子ども並みの扱いを受けている。
 ホントは大丈夫なんだけど、一応私も
「ハーイ!」
と気のいい返事をして、生徒たちの指示に従って過ごす。

結婚式は1日中行われ、エレクトーンを使っての歌謡ショーや、のど自慢大会のようなものが開かれたり、新郎新婦に見惚れる人たちが居たりして、夜中の12時過ぎまでにぎやかなようだ。
 私は途中で他の生徒の家に寄り、お茶をご馳走になって、
大満足して家に帰った。
家では寝る前にもかかわらず、
ピサンゴレン(バナナの揚げたもの)を食べてから寝なさい!
と言われ、寝る前なのにー!と思いつつも、
郷に入っては郷に従え・・・ということで、
家族のみんなと食べる。

 翌日は村をぐるぐる回ったり、村の小学校を訪問したり・・・
今回は、生徒の1日の暮らしが分かってよかった。
家の手伝いとは言うものの、結構真剣に働いている。
日本のようにお母さんだけが家事を行っているのとは違い、
家族で分担をしてかなりの家事を行う。
ここにはガスコンロも洗濯機も掃除機も食器洗い機もなく
すべて人力によるから、家事の負担も大きい。

だからこそ、子どもたちは大きな働き手となる。
家の仕事の合間に学校に通う。
かなりの熱意がなければ、学校を続けることは難しいのだな・・・
と感じる。
そこまでしても行きたい!と思えるような学校って、
どんな学校なのだろう・・・?
と考えながら、
どうしたら生徒が学校に来てくれるのかと、今日も思い悩んでいる。

 自分の家に帰ると、背中がかゆい・・・!
昨日生徒のベットに一緒に寝たので、
ダニかのみに喰われたよう・・・
背中一面に赤いブツブツが出てかゆみがとまらなかったが、
これもいい経験!!

お母さんの話

 KO**Aの同僚の子のお母さんが任地へやってきた。
お母さんは日本びいきだそうで、日本語がペラペラ。
私との会話は不自由なく日本語で行えるくらい。
新卒の娘が、一人で海外暮らし!というのが気が気ではなかったらしく
ついにやってきたのだった。

 日本語で会話できる分、お母さんとたくさん話ができた。
彼女は毎日のように、家に電話をしていたらしいが
話の内容がいいことばかりではなく、そばに居られずに
とても心配していたとの事。
まだ若い分、いろいろな事を心配したり、悩んだり、帰国したくなったりしたそうだ。
そんな嘆きを親が電話で聞くにつけ、
帰ってくればいいのに!と思ったとか。
 でも、ずっと一緒にいた私からみると
彼女のそうした思考はまだ任地生活の慣れないうちだけで、
今はかなり楽しんでいるから大丈夫という感じがしている。

 彼女はどこへ行っても値切るのがうまく、(国民性だと本人は言っている)
何事にも強気の交渉で、
私なんかよりよっぽどしっかりしている。

 そんな彼女がお母さんにしっかり甘えている姿を見て、
他のKO**Aのメンバーも家に電話をしていたようだ。

待っていてくれる人がいるというのは、本当にありがたいことだ。
こんな時にしか、なかなか感じられないことだが・・・

我が家のみなさんは、お変わりないでしょうか?

スラウェシの隠れ海へ行こう!



         2009年4月19日
 マカッサルから離れること車で5時間。
ここに、とてもきれいな海があった!
海辺は白い砂浜で、海底がばっちり見渡せる。
青い海とはこのことかと、感激!
密かなリゾートスポットらしいがまだ開発しきれていないようで、
お客もまばらで現地の人たちが海岸で遊んでいる。

小型の舟に乗り30分くらい行くと島があって、
その島の周りも白砂で、透き通る海とはこのことか!
という感じで、海底までもが見渡せる。

 舟から降り、シュノーケリング。
水面から海底を見渡すのだが、きれいな海で
海中のものが良く見える。
カラフルな色の生き物たちの生活が、底にはあった・・・

今までシュノーケリングをした中で、一番良く見れた海だった!!
気分良く、プカプカ浮かびながらわずかな時間を楽しんだ。

先輩隊員の家へ!




     4月13日(月)
マロスの帰りに先輩隊員の家へ。
南スラウェシでマカッサルより北には行ったことがなかったので、
マロスへの旅からこの県への旅は、とてもおもしろかった。
先輩隊員の家は、パロポ人。
マカッサル人とも、ブギス人とも違う。
こんな車で数時間のところで、全く違う民族が住んでいるというのも
このインドネシアならではだ。
 帰国まであと半年を迎えた先輩隊員だが、
その生活ぶりが現地の人との生活にすっかり溶け込んでいて、
そこに住む人たちに愛されているのが、よくわかった。
 とてもその雰囲気が心地よくて、見ている私まで嬉しい気持ちになる。
こういう日々の暮らしの中に、活動の原点があるのだと思う。
自然体で過ごす彼女と居ることで、
私も気持ちよく過ごすことができた。
とても魅力的な女性だ。

県が違うと見える景色も違っていて、
また生活の仕方も変わってくる。

2009年5月16日土曜日

旅の終わりに・・・





     4月12日(日)
 インドネシア国内旅行さえ、まだろくにしていない私だが、
今回の同期隊員の任地訪問は、
予想以上に収穫が大きかった。
自分の活動を見直すとともに、肩の力がぬけた感じ。
 この山が、私にそうさせたのだろうか?
山のふもとの生活が、いろいろな事を思い出させてくれた。

キャンプ場から空を見上げたように、
今はこの地の空を見上げる。
自分を見失わないために、
自分らしく生きられる場所を見つけること。
簡単にできそうで、できないものだなぁ。
そういう場所を作っていくことも大事。

* 写真は山のふもとの畑の様子。
キャンプ場の下の畑に様子が似ていると思いませんか?

村の子どもたちと遊ぶ!





 同期隊員のホームスティ先の家の前は、ちょっとした丘のようになっている。
家の前に芝生の生えたような空間があり、
夕方になると村の子どもたちが遊びに来る。
私もこの時間は毎日、昼寝も兼ねて芝生に寝転んでいた。
キャンプ場ではいつもこうして昼寝をしていたものだが、
あいにく任地にはこんなふうに寝転べるところが少ない。
だから、つい嬉しくて毎日ここでごろごろしていたのだ。

 今日はいつもより多くの子どもたちが集まってきていて、
寝ている私はいつの間にか子どもたちに囲まれてしまった。
子どもたちが遊ぼう!というので、
キャンプ場でよくやるレクゲームをいくつか。
命令ゲーム・キャッチ・どんぐりころころなど。
もちろん言葉が全て通じるわけでなく、
その点は得意の雰囲気でおぎないながら、
久しぶりに私自身が夢中になってゲームをしていた。

子どもたちの大きな笑い声が、山のふもとで広がる。
こんな時間を村の子たちと過ごすために、
インドネシアに来たのだったなぁ・・・
と、初心を振り返りながら
今の自分の活動を思う。
まだまだ、できることややりたいことはたくさんある。
一つずつ実行していくしかない!
いつも、子どもたちが力をくれる。
この想いは、国を問わず同じようだ。

お菓子作り!



 インドネシア人はお菓子作りが得意!
この村で一番の菓子作り名人がいるということで、
活動の参考にしたいと、会わせてもらった。
この人に会うことが、今回ここへやってきた目的の一つ。
同期隊員の家からは少し離れていて、山を登ったところにある。
 この家は高床式で、下ではニワトリを飼っている。
だから、タマゴは豊富にある。
すでに殻にヒビの入ってしまったものを、お菓子作りに用いている。
 
 日本の菓子作りの本には、「お菓子作りは計量がポイント!」
と書いてあるが、この国の人たちは全て目分量。
でも、どのお菓子もおいしく作る。
話をしながら、テキパキと材料を混ぜ、
20分もしないうちにケーキの種ができあがった。
蒸してあっという間にできあがり。
もちろん、味もばっちり。
できたお菓子は、遊びに来ていた人たちみんなに分けて、
そんな感じでお菓子作りは終了。

 手際のよさに目をみはり、

またみんなでワイワイ、本当に楽しそうに
お菓子を作る村の人たちとの時間がすごく暖かかった。

これらのお菓子を私の任地でも作り、村の人に教えるつもり。
まだまだレシピがあるようなので、
また次回も教わらなくちゃ!

マンゴーの木登り



 インドネシアでの活動以外でやりたいことに一つに、
木登りがある。
そもそも、木に登り収穫することが好きなのだ。
日本に居たときも、
梅の木・柿の木・ざくろの木・・・
木に登って夢中に果実を取りまくった!
そして、それらを果実酒に!
あー思い出しただけでも、楽しい気分!

 散歩していると、木登りに適したマンゴーの木を発見。
もちろん果実が実っている。
登っていいよといわれたので、早速挑戦!!
この時期のマンゴーは果物としてではなく、
魚の付け合わせとして食べる。
日本人が大根おろしをつけて食べるように、
スラウェシの人はマンゴーの実を細切りし、魚と一緒に食べる。
まだ若いマンゴーの実はすっぱいが、酸味がうまい。
インドネシアでも、この地方の人たちしか食べないそう・・・
ホームスティ先の食事にも、必ずと言っていいほど出てくるものだ。

 という訳で、マンゴーはみんなにとってうれしい食べ物。
2~3mのところまで登り、手を伸ばすと
そこにはまっさおに実ったマンゴーが!!
その収穫の瞬間といったら!!

 ちょっと登っただけで、見える風景は違っていて、
いろいろな角度から見ると、
同じものも違って見えるのを感じた。
 私の活動も同じ。
どんな角度から見ていくかで、やるべきことも違ってくるようだ。