記12月8日(月)
5時起床。今日はIdul Adha(犠牲祭)だ。
10月1日のラマダンと同様、朝の6時には広場に集まり、お祈りが始まった。
今回はなんと、お祈りをしている家族の間に座ることができ、お祈りの様子をビデオ撮影させてもらった。
イブが日本に紹介するなら撮影していいよと言ってくれたのだ。
今回のラマダンは、10月に比べるとちょっとだけ人が少なかった。
10月のほうが正式なのだろうか?
我が家でも10月は家族全員で参加したが、今日は若夫婦は参加せずに家に居たようだった。
お祈りが終わると、イブの実家へ行く。
ラマダンには必ず食べるご飯を食べると、いよいよ今日のメインイベント会場へ。
イブの兄弟共用で使用しているという別荘(というより海の家のような感じで、小屋が建っているだけ)に移動する。
今日は犠牲祭。
うちの親戚以外にも、たくさんの子どもたちが集まってきた。
この肉の一部を、貧しい人たちに分け与えるのがこの犠牲祭の目的の一つだ。
この日のために、イブの兄弟7人で1頭の大きな牛を買った。
写真の牛が犠牲祭に使われたもの。牛を引いているのが貧しい家の子どもたち。
その牛は、お祈りと共にHAJIの手によって命を絶たれ、すぐに解体された。
その命を絶つ瞬間から解体され肉になるまでの工程、その雰囲気がなんとも表現しがたいものだった。
日本人の多くは、気持ちが悪いと目を背けるだろうが、ここでは祈りを込めて小さなこどもからお年寄りまでが全てを見守る。
一部始終を見せてもらった(ビデオ撮影もできた)が、儀式的なその工程と、職人の包丁さばきの素晴らしさに思わず目が釘付けになってしまった。
きれいに解体され、肉になり余すところなく全てが分けられた。
まずは7家族分に分けられ、次に解体の職人や地元の人たちへ、最後に周りにいた貧しい子どもたちへと配られた。子どもたちは袋を持っていて、職人が肉片を分けるや否や肉を奪い合いながら、少しでも多くもらえるようにと切実にお願いしていた。
我が家では、まだ一度も牛肉が食卓にあがったことはない。
その位、肉を食べると言うのは特別な行事でしかありえないのだ。
半年居て気づいたが、村人が牛肉を食べるなんてこの時くらいしかないようだ。
仕事は全て村人が行い、他の人たちは見ているだけだ。
見えない階級社会があることも感じた。
文化的な行事に参加するたびに、この国の複雑さを感じている。
のち、前回同様親戚回りをする。
とはいえ、前回のラマダンよりは全体的にひっそりとしている感じ。
前回の方が賑やかだったかな?
イスラムの犠牲祭を間近に見られたのは衝撃的ではあったが、貴重な経験となった。
うちの親戚以外にも、たくさんの子どもたちが集まってきた。
この肉の一部を、貧しい人たちに分け与えるのがこの犠牲祭の目的の一つだ。
この日のために、イブの兄弟7人で1頭の大きな牛を買った。
写真の牛が犠牲祭に使われたもの。牛を引いているのが貧しい家の子どもたち。
その牛は、お祈りと共にHAJIの手によって命を絶たれ、すぐに解体された。
その命を絶つ瞬間から解体され肉になるまでの工程、その雰囲気がなんとも表現しがたいものだった。
日本人の多くは、気持ちが悪いと目を背けるだろうが、ここでは祈りを込めて小さなこどもからお年寄りまでが全てを見守る。
一部始終を見せてもらった(ビデオ撮影もできた)が、儀式的なその工程と、職人の包丁さばきの素晴らしさに思わず目が釘付けになってしまった。
きれいに解体され、肉になり余すところなく全てが分けられた。
まずは7家族分に分けられ、次に解体の職人や地元の人たちへ、最後に周りにいた貧しい子どもたちへと配られた。子どもたちは袋を持っていて、職人が肉片を分けるや否や肉を奪い合いながら、少しでも多くもらえるようにと切実にお願いしていた。
我が家では、まだ一度も牛肉が食卓にあがったことはない。
その位、肉を食べると言うのは特別な行事でしかありえないのだ。
半年居て気づいたが、村人が牛肉を食べるなんてこの時くらいしかないようだ。
仕事は全て村人が行い、他の人たちは見ているだけだ。
見えない階級社会があることも感じた。
文化的な行事に参加するたびに、この国の複雑さを感じている。
のち、前回同様親戚回りをする。
とはいえ、前回のラマダンよりは全体的にひっそりとしている感じ。
前回の方が賑やかだったかな?
イスラムの犠牲祭を間近に見られたのは衝撃的ではあったが、貴重な経験となった。
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