2008年12月27日土曜日

TERIMA KASIH(ありがとう)

                         (写真は家の裏の景色)
      12月27日(土)
 メールをくれた皆さん、ありがとうございます。
年末ですね。
もうすぐ1年が終わるのかと思うと、早いなぁ・・・と感じます。

私の体温は冬の寒さで年明けを感じるようで、
まだまだ暑いこの夏のインドネシアでは、
年末という雰囲気がありません。
今年ももう終わりかぁ・・・というしみじみとした感じが今現在もまだないのです!

日本人にとって年末年始は本当に特別な大イベントなんだなぁ・・・
とあらためて感じたりして。

日本人同士で、「よいお年を!」とここでも言葉が交わされますが、
暑い気候の中では、いまいち実感が湧かないというか・・・
体で感じたことは、本当に染みついているものです。

毎年初日の出は近所の山で拝んでいたので、
来年はどこで拝もうかと頭を悩ませましたが、
雨季ということもあり山頂で拝むことはどこも難しそうです。

でも、初日の出を見ながらの新年の誓いはやっぱり必要なので、

どこかで初日の出を拝むつもりです。

今年の初日の出は、3-2の合格祈願にかけてしまったので、
来年は何か自分の事を!
どうやら今気づきましたが、新年の誓いではなくお願いしてたようです・・・

来年は新年の誓いをしよう。

みなさん、よいお年をお迎えください。
いつも、ありがとうございます。

本当に感謝!感謝!
TERIMA KASIH BANYAK


ジャカルタでクリスマス!

     記12月26日(金)
 任地を離れて初めての国内旅行に!
まずはジャカルタの隊員連絡所で、のんびり。
本当にのんびりしている。

任地では常に家族と一緒だったから、毎日がとてもにぎやかだった。
それもそれで良いのだけれど、家でのんびりできるという感じではなかったので、
とてもこの時間を楽しんでいる。
 
 まるで栃木から東京へ初めて上京した日のように、
任地から大都会へ来た私は、 すっかりおのぼりさん状態。
先輩隊員や、すでにこの辺に詳しい同期隊員に案内してもらって、
ジャカルタをぐるぐる。

 うちの家族の人たちは、お父さん以外ジャカルタにはまだ行ったことがない。
きっと来たら都会過ぎてびっくりするだろう。
こんな私でさえ、分かっていながらもやっぱり都会だなぁ・・・
って感じるから。

これから、同期と合流して旅が始まる。
いつも通り、何の計画も立てずにいきあたりばったりの旅だ。

ふふふ。

2008年12月20日土曜日

HARI AKSARA INTERNATIONAL


         記12月17日(水)
 いろいろとイベントは尽きず、今日はマカッサルで「国際識字デー」に参加。
南スラウェシ州のPLS課の人たちを中心にたくさんの人が集合。
かなりにぎやかなイベントで、私の県ではPLS課と、PLS課の事業に所属する職員約40名が出席した。
このイベントでは識字教育のメンバーや教員に対してのコンテストがあり、発表があったのだが・・・
 実はこの招待状が私の県には2日前に届き、課内はちょっとした大さわぎに。
1日では準備どころか、コンテスト参加のメンバーの決定さえできないからだ。
職員に声をかけ当日会場に参加するのがやっと。コンテストへの参加は見送った。
 招待状の作成日は12月1日になっていたのに、どうしてこういう事が起こるのだろう・・・
それにしてもコンテストに参加できなかったので、県としてはとても残念なようだった。

WARUNGでの食事




   記12月17日(水)
 マカッサルに行くと上司がいつもご飯をごちそうしてくれるのだが、海の街だけにすごい。
写真のように、クーラーボックスに入った魚の中から、自分で好きな魚を選び、調理方法を選び食べる。
 のだが、な・な・なんと。
1人一匹頼むのだ!食べきれーん!
と毎回訴えているのだが、それでも毎回注文される。
体の部分だけで、20cmはある魚を、一人で食べるのだ。
この魚のほかに、イカや野菜、スープなどを注文するものだから、テーブルの上は大変なことになっている。
日本人は魚をきれいに食べるといわれるけど、到底食べきれずに半身まるまる残ってしまうのだった・・・
 食べ物は粗末にしてはいけないと育ってきたが、ここではかなりの残飯が出ている。
うーん。

活動計画

  12月15日(月)
 勢いに乗じて、早速上司と私の活動計画を再考した。
とはいえ、語学的にうまく伝わっていないことが多く、前回までの交渉や、計画とはかなり違ってしまったが。
上司としても、私が何の目的で、何をしに来たのかが説明以外には具体的に分からなかった分想像もしがたいようだったが、今回は少し具体的に提示できたので少し進んだ感じ。
 初代隊員が通るべき道を順調に進んで、一つすっきりしたか?
今まで活動内容を上司に大枠でしか伝えられなかったり、じっくり相談に応じてくれると言うタイプの上司ではない分、こういう話ができずにいたのだが、今日は勝負をかけてみた。
帰国までの大枠の活動を初めて話す事ができた(そこまで話がもった)ので、画期的といえる。ただ一方的に私の話を聞くだけ(この場合は流されている場合が多く、こちらは話したつもりでも実際は伝わっていないことが多い)ではなく、意見の交換ができた。
とはいえ、もちろんいつも通り途中で他の人に話を横どられ全ては話しきれなかったが、今までよりはずっと進歩と言う感じ。
日本でいうところの相談とは程遠いが、そういえば外国人社長に雇われていたときもこんな感じで交渉や提案をしていたことを思い出した。
改まった場ではなく、日々の雑談の延長で交渉ごとを持ち込むという手段だ。
いつもこうしていたことを思い出し、言葉の齟齬はあるものの、この作戦は使えることを実感した。
活動計画が独り歩きせず、上司と歩調を合わせることによって、活動が一歩前進したように思う。
交渉ごとは苦手だが、ちょっと勇気を出してみたら思いのほかうまく話が進んだので、自分でもびっくりしている。

ジャカルタ上京

   12月13日(土)
9日から13日まで、隊員全員がジャカルタに上がり総会が開かれた。
ここインドネシアにはJV・SV(シニア)含め約50名の隊員が派遣されている。
赴任先南スラウェシ島には15名居るためすでに顔なじみの人もかなりいたが、それにしても多くの隊員が一同に集まったので、賑やかに行われた。
こんなにも多くの隊員がここで働いているのかと思うと、いろいろと思うところがあり、すでに帰国を間近に控えている隊員の帰国報告会や、職種別の活動紹介など自分の今後の活動の参考になることも多く、得るものが多かった。
ちょうど今後の活動の仕方について考え直す時期だったので、この機会に他の隊員の活動状況を聞いたり、情報交換をすることは意義のあることだった。
一人ひとり派遣地が違い、状況や環境も違い、目に見える成果ばかりが上がる隊員ばかりではないことも分かった。
大事なことは、現地の中でいかに共に働いていくかということだと感じた。
日本の技術を持ち込んだり、一方的に教えることだけでなく、本当に現地の人たちが望んでいることは何かを感じ同じ目線で考えながら、共に考え活動していくことだと再確認した。そう思って任地に居たつもりだったが、まだまだ表面しか見えておらず、村人の生活に入っているとはいいがたい自分を振り返ることができた。
とはいえ、自分のこの5ヶ月間の活動は間違っていないという確信を得、新たに気持ちが湧いてきた。
この勢いに乗って、今後の活動を展開していけたらいいと感じている。

ラマダン 犠牲祭



記12月8日(月)
5時起床。今日はIdul Adha(犠牲祭)だ。
10月1日のラマダンと同様、朝の6時には広場に集まり、お祈りが始まった。
今回はなんと、お祈りをしている家族の間に座ることができ、お祈りの様子をビデオ撮影させてもらった。
イブが日本に紹介するなら撮影していいよと言ってくれたのだ。
 今回のラマダンは、10月に比べるとちょっとだけ人が少なかった。
10月のほうが正式なのだろうか?
我が家でも10月は家族全員で参加したが、今日は若夫婦は参加せずに家に居たようだった。
 お祈りが終わると、イブの実家へ行く。
ラマダンには必ず食べるご飯を食べると、いよいよ今日のメインイベント会場へ。
イブの兄弟共用で使用しているという別荘(というより海の家のような感じで、小屋が建っているだけ)に移動する。

 今日は犠牲祭。
うちの親戚以外にも、たくさんの子どもたちが集まってきた。
この肉の一部を、貧しい人たちに分け与えるのがこの犠牲祭の目的の一つだ。
この日のために、イブの兄弟7人で1頭の大きな牛を買った。
写真の牛が犠牲祭に使われたもの。牛を引いているのが貧しい家の子どもたち。
その牛は、お祈りと共にHAJIの手によって命を絶たれ、すぐに解体された。
その命を絶つ瞬間から解体され肉になるまでの工程、その雰囲気がなんとも表現しがたいものだった。
日本人の多くは、気持ちが悪いと目を背けるだろうが、ここでは祈りを込めて小さなこどもからお年寄りまでが全てを見守る。
一部始終を見せてもらった(ビデオ撮影もできた)が、儀式的なその工程と、職人の包丁さばきの素晴らしさに思わず目が釘付けになってしまった。
きれいに解体され、肉になり余すところなく全てが分けられた。
まずは7家族分に分けられ、次に解体の職人や地元の人たちへ、最後に周りにいた貧しい子どもたちへと配られた。子どもたちは袋を持っていて、職人が肉片を分けるや否や肉を奪い合いながら、少しでも多くもらえるようにと切実にお願いしていた。
 我が家では、まだ一度も牛肉が食卓にあがったことはない。
その位、肉を食べると言うのは特別な行事でしかありえないのだ。
半年居て気づいたが、村人が牛肉を食べるなんてこの時くらいしかないようだ。
 仕事は全て村人が行い、他の人たちは見ているだけだ。
見えない階級社会があることも感じた。
文化的な行事に参加するたびに、この国の複雑さを感じている。
のち、前回同様親戚回りをする。
とはいえ、前回のラマダンよりは全体的にひっそりとしている感じ。
前回の方が賑やかだったかな?
 イスラムの犠牲祭を間近に見られたのは衝撃的ではあったが、貴重な経験となった。

2008年12月6日土曜日

木に登るおさるさんは誰?



記11月30日(日)
子どもたちと約束の日曜日。
ちゃんと来てくれるかなぁ・・・と心配ながらに待ち合わせ場所で待つ。
5分くらい遅れて、子どもたち第1弾が到着!
「待った?」
なんて、子どもたちは時間に正確なのだろうか?
1時間は待つ覚悟をしていたので、すばやい登場にびっくり。
集合場所まではバイク。
小学生だというのに、みんなバイクに乗っている。気をつけてね!って感じだ。
私が持参した竹とんぼを飛ばして遊んだり、近くの川に笹の舟を流したりして遊ぶ。
私はマンゴーが好きだといつもいっているので、近くの木に登りマンゴー狩り?
マンゴーの木はよくしなる。
2mくらいの高さは平気で登っていくので、落ちないかとハラハラしながら私は下でマンゴーをキャッチする役だ。
あっという間に2時間が経ってしまった。
日本の歌を教えてほしいと言われたので、キャンプでおなじみの「幸せなら手をたたこう」を歌った。
この歌なら、インドネシア語版もあるのでリズムが分かりやすい。
キャンプで子どもたちに歌を教えていたときのように、野原でおもいっきり歌ってみた。
みんな大さわぎ!

キャンプ場はもう冬だろうか。
暑いこの国で、日本の冬を思い出すといったらやはりキャンプ場の冬だ。
寒い外気に震えながら、暖かい鍋を囲む・・・
2年後までおあづけ。

村の講座に参加


記11月27日(木)
 講座を開くのに、何を行うのが村人にとって役に立つのかを考えている。
そんな話をすると、ちょうど今日村で講座が開かれるので連れて行ってくれるという話になった。
こんなチャンスは滅多にないと思い、早速同行することに。
村人の仕事の事情があるため、たいてい識字教室や講座は夕方開かれる。
 何度か通ったことのある市だったが、範囲は広くその地域には初めて足を踏み入れた。
 小麦粉で作る揚げ菓子で、日本のかりんとうに似ている。
小麦粉は手に入りやすい食材なのだ。
子どもたちも含め、20人くらいの人たちが集まり、実際にこの菓子作りに参加していた。
その奥では、ティカール(日本のござのようなもの)を作っている主婦たちもいた。
 女性の働く場所がないという事が悩みのようだ。
だからこうして、お菓子を作り市場で売ったり、ティカールを作って売ったりしている。
村人たちの雰囲気がとても良く、協力して作っていたし何よりたのしそうに活動していた。
こういう姿を見るのは、とても気持ちがはずむ。
こうやって、現場に来るとなんとか力になりたいなと、すごく熱い気持ちになる。
 少しでも、この村人たちの役に立てるようなことができるようになる日が来るといい。

村人とおしゃべり


記11月26日(水)
 午後は、初めてPAKETの授業風景を見学。
PAKETA(小学校の勉強)は、10歳から17歳くらいまでの子どもたちが居た。
PAKETB(中学校の勉強)では、15歳から23歳までの人がいた。
いずれも、20人のクラスだそうだが、実際に来ているのは10人弱。
昼間は何をしているのかと聞くと、家の手伝いでご飯を作ったり洗濯をしたり・・・という。
 なかなか授業に参加しない人が多いので始まる前に先生が各家庭に呼びにいったりもするそうだ。
今日はこれでも出席率は高いらしい。
ちょっと話をしたが、なかなか難しいものだ。
この子たちが、普通に学校で勉強できる環境なんて本当に作れるのだろうか?
まだ想像もつかない活動の先を考えて、途方にくれてしまった。

 夕方、自転車で散歩。
自転車で巡回できる識字教室へ行く。
その途中、何度か道端で話して日本語を教えたことのある中学生の集団に出会う。
いつもは、私の家の近所で遊んでいるところに私が出くわし、日本語を教えていたので彼らの家がこの近所だとは知らなかったのだ。
 雨が降ってきたこともあり、雨宿りをしながら雑談。
さすがは、子どもたち!日本人や私に対して興味津々だ。
宗教のことが気になるようで、仏教のお祈りの仕方や、お祈りの言葉を教えてとせがまれた。この国では私は仏教徒ということになっているので、一通りの話をする。
 何度か日本語を教えただけだったのだが、今度は定期的に教えてほしいとリクエスト。
早速今週日曜からという約束になった。
本当に日曜に来るのかな?と半信半疑だが、楽しみでもある。

 そうこうしながら、村へ。
この識字教室は以前にも紹介した東屋のような屋根の教室。
もちろん大雨の今日はそこではできず。
雨のため、教室も休みかと思いながら急いでいってみると、建設中の建物の開いている空間を利用して学習していた。
文字を書く練習が主な授業。
雨で参加者も少なかったが、来ている生徒は真面目に勉強していた。
学習も6ヶ月目になるので、かなり個人差がある。
字を見るのも難しいような年齢のおばあさんが熱心に学習している姿にはいつも感心させられている。
 雨で授業は早くきりあげ。
雨なので、夕食の準備を早めにするとか。
 私はというと、ある一軒の家に寄り、お茶タイム。
村人の一般的な反応として、初めて見た日本人に興味を持ってくれる人と、近寄らない人の二種類があるようだ。
この村は農民が多いとのことで、日本では農家が成功していると言う話が有名らしい。
日本へ出稼ぎに行きたいと思っているというおじさんが、私に興味を持って家に寄るようにと促してくれたのだった。
 こういう人と出会えると、次回からの訪問も行きやすくなる。
寄る家ができたからだ。
いろいろと日本の話に花が咲き、日本代表としてあれこれ話すのだが意外にあやふやなことが多くて返答に詰まることもしばしば。
日本の農業はどうやって発展したのか?
私の家も農家だけど、そういうことはまったく知らない・・・

村生活は刺激があって面白い。

ある少女の話

         記11月26日(水)
 事務所で仕事をしていると、16歳の女の子がPAKETBの資格証明書を受け取りに来た。事務所には私しかいなかったので、対応することに。
証明書の受け渡しは担当者しかできないので、少しここで待つように話し、その間私とおしゃべり。
彼女はタナトラジャ生まれだが、家の生活が苦しくトラジャでは生活できずに家のために、タカラールにいるおじを頼ってきたそう。小学校1年生から今までずっと、両親と離れて暮らしている。
タカラールでは、親には会えなかったが、小学校・中学校と進学させてもらえたそう。
でも、UJIAN NATIONAL(国家試験)で不合格になってしまい、中学校を卒業できずに再度試験を受けたそうだ。
この子の話では、この試験に79人の生徒が不合格だったそうだ。
まだこのシステムについては私自身良く分かっていないので、フォーマルの学校の生徒も合格できずに再受験をしてるなんて初耳だった。
 無事合格ができたので、1月にはトラジャに帰り、そこの高校に進学できるとのこと。
やっと家の人と暮らせるんだよと、とても嬉しそうに話してくれた。
どんなに家の事情が厳しくても、高校だけは卒業するんだよと話をして分かれた。
 彼女のような、日本で言う複雑な事情を持つ子どもたちは多いのだろうと思った。親を助けるために、親を手伝うために、彼女なりにできることをしているのだ。
こういう子どもたちが、いったいどれくらいいるのだろうか?
聞くたびに、本当に胸が痛い。

日本文化祭

記11月21日(金)
 マカッサルにある観光学校で開かれた日本文化祭。
学生を対象に行った。
南スラウェシに住む隊員が集合し、行う。
地元でやっていたインターナショナルフェスタや、PIF、キャンプでよくやっていたようなスタイルの行事だ。
 すでに企画してくれているものを手伝うような形の参加だった。
隊員間では初めての企画ということだったが、こんな感じでやれるのなら日本に居たときと同様な感じで企画運営ができそうだと実感。
 おもしろいことになりそうだ。

勉強机のその後

       記11月18日(火)
 新しい机を買うといっていたが、夕方突然パパが直すといって、とんかちを握っていた。
部屋から机を出し、釘をうちまくる。
 しばらくトントンしていたが、直った!
と一言。
筋交いのようなものはないので、釘で支えているもののみだが、一応再び使えるようになった。
重いものを乗せるとまた崩れてしまうので、注意して使うように言われた。
見栄えは悪いが、確かにまだ使える。
やたらと釘を打ったので、机の上は釘の頭があちこちにあるが、下敷きのようなものを使えば机の上でノートに文字を書くこともできそう。
 ただ、この机の上でPCを使うのは避けたほうがよさそうだ。
机の中の引き出しは使わないことにした。

多少の不自由はあるが、すぐに捨てずに直して使うのはいいことだ。

UJIAN NATIONALPAKETA・B

              記11月18日(火)
 今日から3日間、PAKETA(小学校)PAKETB(中学校)の卒業資格試験が行われる。
PAKETC(高校)は、県内で1箇所だけの試験会場だったが、今回は2箇所に分かれている。
受験者が遠方から来るにはお金と時間がかかってしまうので、そのための配慮らしい。
 上司と共に2箇所をまわる。
受験希望者は50人以上いたのだが、実際の受験者は10人足らず。
それぞれいろいろと事情があるようだ。
試験会場では、ここではお知らせできないような現場をみてしまった・・・
 でも、それが現状なのだなぁ・・・と同時に考えさせられた。
日本の価値観では決してやってはいけないことだが、ここではその価値観は通用しない。
受験会場に来たということだけでも、意欲があるということのようだ。
どうしてそういった現象が起こるのかと考えていくと、PKBMに満足に通えない現状がある。その理由を突き詰めていくと、貧困につきあたってしまうのだった。
 だから、この問題は難しいなぁ・・・と感じる。
日本の価値観を持って、ダメ!とは言い切れないのである。
ダメなことは分かっている。
でも、どうしてそうせざる終えないのか?
それをさせないためにどう対処すればいいのか?
 
 考えれば考えるだけ、変えるのは難しいと思ってしまう。
いろいろと考えさせられた。

 今日は同課に勤めていた一番仲の良かった同僚が、国家公務員に合格した。
登録制なのか、2004年から待っていたそうだ。
その間、学校外教育課で臨時職員のような形で働いていたとの事だった。
今朝も普通に仕事に来ていたが、突然決まった?そうだ。
全部で12人の採用があったという。
どういう手順を経て国家公務員になるのかはまだ分からないのだが、こんな風に突然決まるのだろうか?謎だ。(私の理解不足なだけだと思うが)
 とにかく、学校外教育課全員が喜んで、おめでとうの嵐だった。
私としては、一番役に立つ人材がこの課から去ってしまうのが惜しくもあるのだが。
でも、念願の国家公務員に本人はすごく喜んでいたので、もちろん私もおめでとう!と言っておいた。