2009年6月26日金曜日

孤児院の生活




   2009年6月14日(日)
 タカラール県にある孤児院。
数ヶ月前から通っている。



25名の子どもたちが居て、ほとんどが小学生。
仕事の合間に通うので、定期的には行けないのだが・・・
ジャカルタにしばらく行っていて会えなかったので、
みんなに会ってきた。



たまにここに行き、子どもたちと遊んでいる。
とても貧しい施設で、
敷地も心ある人から借りたものらしく、数ヶ月前にこの場所に
引っ越してきた。
前の敷地のときから訪問したいなと思いつつ、
なかなか訪問する勇気が出ずに半年くらい過ぎてしまった。



行ってみると子どもたちは歓迎してくれ、
毎回おりがみやレクゲームなどをして過ごしている。
今回は、こどもたちとお菓子作りに挑戦しようと、
材料を持って遊びにいった。

 この子たちのご飯は3食インドミー(インスタントラーメン)とごはんだけ。
たまに揚げ魚がでるのがごちそうだそう。
とても貧しい食生活だ。
栄養失調にならないのかと心配だが、何とかみんな元気にやっている。
この施設は国や県からの補助もなく、
いわゆる私立だが、経済状況は厳しくいつ閉鎖しても仕方ないという
状況のようだ。
通い始めた当初は、ここを運営している所長のような人から、
日本から援助が欲しいと何度も言われ、その都度断ってきた。
援助目当てで孤児院を開く人も多いと聞くからだ。
他の県の孤児院では日本からの援助でかなり潤っていると言う。
トラック何台分も、孤児院に物資が運ばれてくるそう。
それが私にもできないのか?というのが、
通い始めてしばらくは毎回話になった。



 その度に、
『そういう援助はできないけれど、子どもたちと遊ぶことはできる。
 それでもいいなら、ここに来たい。』
とはなし続け、こうして通うようになったのだ。

 この施設ではおやつタイムなんてもちろんないから、
今回は一緒にお菓子作り→おやつタイムの実現。
お菓子も、インドネシアの一般的な揚げ菓子を一緒に作ってみた。
女の子が中心となって、生地づくりや丸めたりする。
男の子は最後の仕上げの揚げる作業を受け持つ。
ワイワイにぎやかにお菓子作りがすすみ、
完成!
 
できたお菓子と紅茶でおやつタイムの始まり始まり・・・!
未だに子供たちの名前を覚えられずに苦労しているが、
楽しい雰囲気を味わってもらえたようだ。
子どもたちの協力性もなかなかのもので、
きちんと役割分担して、作業をしていた。

 魚をあげるのではなく、魚の釣り方を教えるのが
国際協力だと、よく言われている。
この子達も中学校卒業と同時に、この施設から出るそう。






少しでも、生きるための技術をつけて
この施設から出られるといいと思う。
そのために、少しでも私で役に立つことを探しながら、
ここに通っている。

任地生活に戻りました!

    2009年6月11日(木)
 約10日ぶりに任地へ戻る。
やっと、帰って来た!
今回ほど、早く任地に戻りたいと思ったことはない。
マカッサルの空港(ハサヌディン空港)について、ほっとする。
空港からタクシーに乗って運転手のおじちゃんと話をするにつけ、
帰ってきたー!という実感が湧いてくる。

やっぱり、任地はいい!!
今回は結構長く任地を空けていたので、
帰ってくると家の人たちが大歓迎してくれた。
イブに抱きしめられて
『やっと帰ってきたね!』
と言われると、
わたしもほっとした気持ちになった。

久々の我が家はとってもにぎやか。
子どもたちは遊んでとまとわりつき、
家の人たちからはジャカルタ生活がどうだったのかと質問ぜめにあう。
ジャカルタでの生活を報告するかたわら、
こうやって話を聞いてもらえるありがたさを感じた。

いろいろと重なり、ちょっと疲れ気味のジャカルタ生活だったが、
またいつものペースをとりもどせそうだ。
もうすぐインドネシアに来て1年が経つ。
この暮らしが私にとってすっかり日常となっている。

ジャカルタにあるキャンプ場





     2009年6月9日(火)
 1500人程の中学生のキャンプに環境系の隊員を中心に参加。
参加者はインドネシア人だが、クリスチャンの学校ということで中華系が多い。
2泊3日のキャンプで、大賑わい。

中心となる大きな広場にさまざまなブースがあり、そこでいろいろなワークショップを体験するのが、主な昼間のプログラムだ。
昔の遊び・中国の切り絵を作ろう!・絵を描こう!・割り箸で模型作りなどなど。
イメージとしては、キャンプの仕事で何度も行った企業の納涼祭や運動会などでのワークショップや、



デパートのイベントでやった染め物講座とか、そういう感じの雰囲気。
参加者が自由に行き来しながら、やっていく。
その中のワークショップのコマの一つとして、環境について行ったのだ。

内容はゴミの分別について。
まだ子どもたちの生活でも一般化していない、ゴミの分別。
隊員がインドネシア語で説明をしていく。
3日間、炎天下の中行われたわけだが、
久しぶりのキャンプとウキウキしていた自分とはうらはら。
自分の反省点も多かった。

・まずは、体調を崩していたこと。
キャンプ場では、どんなときでも子どもたちの前では元気で居ること
が鉄則なのだが、
数日前からの体調不良と暑さに負けてしまい、全然動けず。
頭の回転も鈍り、子どもたちの動き・先読みができない・・・
こんなキャンプの基本が満足にできないなんて・・・とかなりへこむ。

・ 言葉が通じない?
子どもたちと接するのだから、言葉が通じなくても何とかなると思っていたのは大間違い。ジャカルタの子どもたちは体も成長も大人で、任地の子どもたちより大人びていた。
-これが都会の子か?
賑やかに楽しく・・・というより、静かに説明を聞く。
こんな生徒を任地で見たことがなかった!
任地の子どもたちはノリが良く、たわいのないことでもすぐに盛り上がる。
そんな中学生をイメージしていたのだが、
ここでは大違い。
この子達の気持ちを盛り上げ楽しい気持ちにさせるのは、本当に難しかった。
いつも少人数を相手に活動をしているので、
こんな風にクラス単位の子どもたちに説明をする機会がなく、
指示をする言葉や、環境用語など、全くインプットされていない。
その上、ジャカルタでずっと日本語を使っていた分、インドネシア語が出てこない。
言葉が出てこなくて、楽しい雰囲気も伝えられない。
その上、私の任地の言葉はかなりの方言。
日本でいえば、外国人が標準語ではないのをしゃべっている感じらしい。
つまり、かなり変?!

キャンプでは、雰囲気や間を大事にする。
だから、その雰囲気づくりをどう行うかで子どもたちとの関係作りがかわってくる。
短い時間での関わりだからこそ、インパクトと関係作りが大事。
何気ない話からも、関係作りはできる。
そう思っていたのに・・・

言葉の壁は大きかった。
任地での生活では、相手が私の話し方に慣れている分、
不完全でも不自由を感じずに過ごせた。
もちろん、うまく伝わらなくて歯がゆい思いをすることは日常茶飯事だが、
それでも誰か理解してあげようと思ってくれている人がいて、
その人を介して話ができていたのが、任地での生活。
 ここでは、話がつながらない。広がらない。

いい経験にはなったが、残念な気持ちも大きい。
せっかく異国でのキャンプだと言うのに、
せっかくの日本の経験を生かすことができなかった。

せっかく楽しみにしていたキャンプ場での宿泊も、
体調不良だったので毎日通った。
もう二度とない体験かもしれなかったのに、
惜しいことをしたものだと、残念でならない。

とはいえ、インドネシアのキャンプ場に行けた事はおもしろかった。
任地の人も知っている、キャンプ場では有名な場所らしかったから。
帰ってからも、きっと任地で話のタネになるに違いない。

使っていたテントは旧式のものだったが、きちんとペグでとめていないので、
初日に強風と雨におそわれた時は、
テントが飛んでいってしまうような勢いだった。
私のキャンプ場では、絶対におろそかにしてはいけないと指導されているものだから、
こんな風に今にも飛びそうなテントに遭遇したことはなかったが、
怠るとこうなる!という見本のようなテントを間近に見て、
直しながらも一人で笑ってしまった。
子どもたちのテントだが、下にシートのようなものを敷かずに
直に荷物を置いていたようで、雨で地面が濡れるとテントにも浸水してきてしまい、
夜はびちょびちょで眠れなかったそう。
『テントで寝るのはイヤ!』
という声には、この状況ではもっともだと同感してしまった。
私のキャンプ場でのタブーがここではたくさんあり、
怠った結果まで、この目で見てしまった。

インドネシアの子どもたちが、キャンプ嫌いにならないといいけれど・・・
インドネシアでは、ボーイスカウトのような団体が多いようで、
キャンプは身近なもののようだ。
(任地ではあまり聞いたことはなかったが)
任地の村では毎日がキャンプ生活のようなものだから、
キャンプの目的や意図するところも、日本とは違ってくるだろう。

 いい経験となった3日間だった。

ゴミ最終処分場



     2009年6月2日(火)
 ジャカルタにある、ゴミ最終処分場見学。
インドネシアのゴミ問題は深刻化していて、JICAでも環境隊員の派遣を増やしている。
この処分場も、あと数年で満杯になってしまうとか。
1日6000Tのゴミが、ジャカルタ近辺から運ばれて来るそうだ。

日本のことも詳しく知らないので、内容はさておき
このゴミの山に登ってみた。
このゴミの山の四方八方に同じようにゴミの山がある。
見渡す限り、ゴミ・ゴミ・ゴミ。
処分場というのは、こんなものなのかもしれないが
日本で見たことのなかった分、衝撃は大きかった・・・

 このゴミの山の周りには、ぼろぼろの服をまとった人たちが、
ゴミの中から再利用できそうなものをあさっている。
その多くはプラスチックやビニール袋で、
リヤカーいっぱいに荷物を積み運んでいる。
日本に居たころテレビで、
海外のゴミの山に住む人たちーなんていうのがやっていたのを
みたことがあったけれど、
本当にこうして生活が成り立つ人がいるのだ。

と、通りがかりに働く人たちを見て感じた。


もちろん毎日この人たちの生活をみているわけではないので、
日々の暮らしをどうしているのかは分からないが・・・
 
この処分場があるだけ、ましなほうだ。
マカッサルにもこのような処分場があるとの話だが。
大体任地では、ゴミを回収するシステムさえないのだから、
ゴミが村に放置されていたり、川に投げ捨てられていたりという現状が
改善される日はいつやってくるのか・・・
まだまだはるか遠い日の話なのかも・・・

とはいえ、これもまたせっかく知った現実なので、
何らかの形で勤務先の同僚に伝えていこうと思っている。
(きっと『知っているし、分かっている』というのは目に見えているが・・・)


それでも伝え続けていくことで、何か心動かせるものがあるかもしれない・・・
と、思う。
それを頼りに活動していこう!

リサイクル工房






       2009年6月1日(月)
 環境隊員たちとともに、ジャカルタにある工房へ。
ここでは、バックや財布、手帳ケース、かさなどを作っている。
その材料と言うのが、服や手洗い用の洗剤、お菓子の袋などだ。
日本でいう、詰め替え用の液体の入っている袋。
使用済みのものを集め、リサイクル品としていろいろな小物が出来上がっている。
日本でもこのようなリサイクル品が販売されているのを見たことはあったが、
こうしてこの国で使用されているビニールが
製品化されているのは妙にリアルであり、
こういった商売が実際この国で行われていることも、意外だった。

 まだ、リサイクル化が一般化されていないこの国では、
先駆的な活動になるのだろう。
この工房を始めて数年との話。
工房には数人の職人が居たが、この人たちも安定して給料が支払われ
毎日働く場所が提供されているのも、うらやましい限りだ。
とはいえ、ジャワではこのような会社形態はすでに一般的なのかもしれない。

 任地ではこんな風に雇用形態の整った?生活ができる人たちは
ほとんど居ないので、すごく驚くことばかりだったが・・・
それくらい、インドネシア国内でも経済格差があるということだ。
まだまだ私の任地では、仕事のない人で溢れている。

 月給制で当たり前のように暮らしてきた日本の生活からは
想像できなかったことだが、だからこそ今は、毎月一定収入を得ることができる
日本って、先進国なのだなぁ・・・と感じてしまう。
日本人にとっては当たり前のことだが、
ここに居ると、日本がいかに進んでいるか?ということを
感じずにはいられない。

隊員総会




      2009年5月31日(土)
 総会のため、再びジャカルタへ。
赴任したばかりのときは、都会へ行けること・同期や他隊員に会えることが
楽しみだったが、任地での活動も動き始めているせいか、
今は任地を離れるのが惜しい気がしている。
そんな、後ろ髪を引かれながらこれから約10日間ここで過ごす。
ゆっくりのんびりしたいところだが、
今回はそうはいかないようだ。

タカラールにある島ータナケケ島へ







     2009年5月29日(金)
 ずっと気になっていた島。
私が今通っている郡にある島だが、
郡にある船着場から約1時間かかる所で、
教育局の人たちもほとんど行ったことがないという僻地。
何度か「行ってみたい!」と上司や同僚に話してみたが、
「高波で危ないから!」「本土の人はほとんど行かないから」
という理由で、今まで行かせてもらえなかった。

 今回、JICAの別のプログラムで視察に行くことになり、
一緒に参加することができた!
通いなれた村の、船着場から出発。
村人には、「気をつけなさい!」「本当に怖くないのか?」
など、さんざん注意&引き止められつつ、舟に乗る。
日本でいう小型ボートか?
海釣りでよく乗ったものと同じタイプ。
5人も乗れば満杯になってしまうようなボートだが、
現地の人はこの舟に10人以上乗るらしい・・・

 島は思ったより大きく、2つの村に分かれていて、
別の村に行くには陸路ではなく舟を使うらしい。
今回主に4箇所を移動したが、すべてボートでの移動だった。
初めに行ったのが、村の識字教室。
この村では、県の支援がまだないためNGOが支援しているとの事。
そのNGOを支援しているのがJICAということになる。
だから、このNGOの活動内容を視察するのが今回の目的。

タカラール県では、非識字率(文字を読んだり書いたりできない人)は
20%~30%といわれており、2010年までにこれを0%に
近づけるよう、配属先は取り組んでいる。
本土では、私が赴任してきたときよりすでに驚異的なスピード?で
既学習者を増やしているのだが、
授業内容他をみると建前の部分が多く、
実際に村人がどれだけ学べるようになったのか?
という点においては疑問が多い。

 この村に行って驚いたことは、
ここでの非識字率は70%ということ。
この村で、学のある人がこのままでは・・・
ということで、NGOの協力の下識字教室を開いたという。
 はしくれとはいえ県の担当者?としてその場に居た私は、
こういう状況を知らずにいる自分や同僚に対して、腹が立った。
(知っているのかもしれないが、ほおっておいている状況?)
島に行かないのだから情報は何もなく、
だから改善されることもなく、村人が置き去りにされている。
島の生活者にとって、
本土に渡ることがなく一生を終える人も多いということだけれど、
だからと言って読み書きができないまま
一生を終えていいということではない。
 この事をきちんと伝えなければ!!と強く思う。
上司がどんな判断を下すのかは分からないけれど、
知った以上は責任がある。
うまくいえないけれど、この現実を通して
「生まれてきた環境の違い」の差の大きさを感じている。
 この1年県内をぐるぐる回っていた私は、
大まかな県内の状況や郡の状況の把握につとめていたのではあったが、
配属先や郡の担当者に連れられる私の行動範囲はすごく限られていて、
まだまだ私の見ているところは表面にしかすぎないのだと、
自分の力ではどうにもできない現実に直面した感じだ。
でも、知ったからには何とかしたい!
何かできるだろうか?
すごく考えてしまった・・・・

 ところでこのNGO(インドネシア)は多方面の取り組みを行っており、
水のタンクの取り付けや、島の収入源である海草の援助、
保健所に対しての指導や、手の洗い方講座などなど。
10種類以上あるプログラムがどう行われたのかを
村人に直接話を聞いたり、実物を見たりした。

プログラムの内容はさておき、分かったことはたくさんあった。
島では海水以外の水を確保することが難しく、
このタンクがあることで、水を売るという商売が成り立つ。
このタンクのある集落の人には無料で使用させ、
他の村の人たちからは少しだけ(日本円で1L3円位)お金を取るそうだ。
これで、このタンクの維持管理費をまかない、生活に役立てるとの事。
 この村にこのタンクがあることは、とてもありがたいとの話。
 
 県の手が届かない所は多く、こうした支援も入るのだが
知ってしまったからには私も何かできることをしたい。
帰ったらまずは同僚にこの現状を話してみよう・・・
自分の目で見たことをきちんと伝える以外に、今はまだ方法が浮かばない・・・

絵を描くという仕事



    2009年5月25日(月)
写真は毎日通っている村にある学校。
この学校は、障害を持った子のための学校だ。
午前中はこの学校の生徒が授業。
午後はPKBMの生徒たちがこの教室を借りている。
私は3月からほぼ毎日ここに通っている。
午前中からここに来られるときは、
PKBMに併設されている幼稚園の生徒と遊んだり、
この学校の生徒と遊んだり。
午後からは、PKBMの生徒たちと授業を行っている。

今日学校に行くと、
この校舎の壁面に絵を描く仕事をしている人がいた。
淡々と絵を描いている。壁面いっぱいがキャンバスで、
見事な筆さばきだ。
聞くと、このあたりの学校中の壁に絵を描いているそう。
給料もいいらしい。
やはり、手に職を持っている人は強い。
この現地生活では、手に職のある人はしっかり働いている。

《手に職を持つ》ことは、訓練学校・専門学校もろくにない
この地では、なかなか難しいことだが、


こうして収入をきちんと得ている人もいる。

2009年6月11日木曜日

初ダイビング



    2009年5月21日(木)
 水は怖い。海は怖い。
ずっとそう思っていたから、どんなに友達にすすめられても
チャレンジしなかった、ダイビング。
なぜ潜ろうと思ったのかというと、

こんなダイビング天国の国に派遣されたこと
ダイビングの大好きだった友人の世界を見てみたかったこと
海の世界に興味が湧いたこと
一緒に潜る仲間が居たこと

チャレンジしてみたい気持ちと怖さが半分ずつ。
そんな中、ついにダイビング免許をとることになった!

 インドネシアの祝日を利用して、バリ島へ。
宿泊先もなつかしのSANUR(サヌール)
久々にまた日本の友達を思い出したりしながらの旅。
 ダイビング好きだった彼女が見た世界を
私も垣間見れたように思う。
私もはまってしまいそうな予感・・・

 いろいろと書きたいことはたくさんあるが、うまく言えない部分は省略。
海の世界を知って、感動!!って言葉をかみしめる。
胸がドキドキして、もっと!もっと!とつい夢中になってしまった。
そこには写真の中の世界が、目の前に広がっていた。

 練習ではうまくいかないことも多かったけど、
その都度インストラクターに教えてもらって、総合的には楽しかった!
命のかかる遊びだから、慎重に・慎重に
でも楽しく!というところが、どこかキャンプと通じるものがある。
海の中での技術講習でうまくできたときに
インストラクターと握手を交わす。
その瞬間がとてもうれしくて、うれしくて・・・
そんな感覚も、キャンプ以来だったような気がする。

 インドネシアではあいさつ代わりに握手をするが、
昔から気持ちのこもった握手には、なぜか涙が出そうになる。
自分と相手だけが通じる瞬間。
キャンプの終わりに、握手をする瞬間が重なる。
キャンプの終わりに、自分から手を出すことができずに
大事な握手を逃してしまったことなどを思い出したりして・・・

 気の合う仲間との旅
新しい世界に出会った心地よさ
新たに感じる確信めいたもの

いろいろなことを感じさせてくれる海の中だった。
海の中の世界。
もっともっとのぞいてみたくなった。

赤ちゃん誕生

       2009年5月7日(木)
上司の家で、4人目の子どもが生まれた。
インドネシア人の奥様方はみな体格がいいため、
妊娠したの?なんて聞いてもただの太りすぎだったりすることはしばしば。
私の上司の奥さん(元同僚)も同様、妊娠中だとわかったのは
8ヶ月を過ぎた頃だ。

 任地では、子どもが生まれ1週間も経つと、
Hakekat(ハキカ)と呼ばれる赤ちゃんの名前をつける儀式及びパーティーが執り行われる。
家に大勢の人を呼び、盛大に行うのだ。
男の子ならヤギ2匹、女の子ならヤギ1匹を絞めパーティーで振舞う。
妊婦さんの入院は出産日のみで、1泊するとすぐに家に帰ってくる。
だんなさんは子どもがうまれると職場に出勤しないでよいのは暗黙の了解のようだ。
子どもが生まれたので仕事を休むというのは、正当な理由らしい。
上司のニコニコ顔が、やけにまぶしい。
インドネシア人の、感情の豊かさにはうらやましいものがある。

ジャカルタ生活開始!





         4月26日(日)
 6月にある隊員総会の準備で、ジャカルタへ。
これから1週間、任地を離れジャカルタ生活。
任地生活に慣れた私にとって、
ジャカルタは大都会過ぎて、いつ来てもキョロキョロしてしまう。
都会の生活には、なかなか慣れない私だ。

生徒の家に宿泊

    4月22日(水)
 4月からは、時々村の家に泊まっている。
今回は、生徒の家に初宿泊。
生徒とはいえ、年齢は近く(私のほうが少し年上だが)
しっかり者の彼女にはいつも生活指導?をされている。
―道ははじを通りなさい。
―忘れ物をしないように、全部持ち帰りなさい
―インドネシア語をもっと勉強しなさい

などなど。
村に行くと、彼女の家に滞在することが多いので、
最近はいつ行っても家の人が心良く迎え入れてくれる。
一緒に授業を行ってから、そのまま彼女の家へ。
 この日は夕食を食べてから、村で行われる結婚披露宴?に参加。
村の大通りに面した家で行われたため、
道を通行止めにしながら、村総出のお祭りのよう。
露店のようなもの(オートバイで売りにきている)まで出てしまい、
それはそれはにぎやか!
 ほとんどの生徒が来ていて、声をかけてくれる。
授業にほとんど参加していない生徒にも会ったが、
「せんせーい!」
とくったくなく、遠くのほうから声をかけてくれる。
「元気?たまには学校においでよー!」
なんてこっちも声をかけながら、ついでに家族の人にもあいさつしたり。
 一人でこんなところに居たら、外国人というだけで心配になるところだが、
私が生徒たちと村を歩く姿はもう村人も見慣れているらしく、
知らない人たちからも名前を呼ばれたりして、
なんとか違和感を感じずにここに居られるようになった。
もちろん、生徒たちが最新の配慮を配ってくれていて、
「はぐれないように、ここに居て!」とか、
「○○ちゃんと一緒にいるんだよ」
などと、子ども並みの扱いを受けている。
 ホントは大丈夫なんだけど、一応私も
「ハーイ!」
と気のいい返事をして、生徒たちの指示に従って過ごす。

結婚式は1日中行われ、エレクトーンを使っての歌謡ショーや、のど自慢大会のようなものが開かれたり、新郎新婦に見惚れる人たちが居たりして、夜中の12時過ぎまでにぎやかなようだ。
 私は途中で他の生徒の家に寄り、お茶をご馳走になって、
大満足して家に帰った。
家では寝る前にもかかわらず、
ピサンゴレン(バナナの揚げたもの)を食べてから寝なさい!
と言われ、寝る前なのにー!と思いつつも、
郷に入っては郷に従え・・・ということで、
家族のみんなと食べる。

 翌日は村をぐるぐる回ったり、村の小学校を訪問したり・・・
今回は、生徒の1日の暮らしが分かってよかった。
家の手伝いとは言うものの、結構真剣に働いている。
日本のようにお母さんだけが家事を行っているのとは違い、
家族で分担をしてかなりの家事を行う。
ここにはガスコンロも洗濯機も掃除機も食器洗い機もなく
すべて人力によるから、家事の負担も大きい。

だからこそ、子どもたちは大きな働き手となる。
家の仕事の合間に学校に通う。
かなりの熱意がなければ、学校を続けることは難しいのだな・・・
と感じる。
そこまでしても行きたい!と思えるような学校って、
どんな学校なのだろう・・・?
と考えながら、
どうしたら生徒が学校に来てくれるのかと、今日も思い悩んでいる。

 自分の家に帰ると、背中がかゆい・・・!
昨日生徒のベットに一緒に寝たので、
ダニかのみに喰われたよう・・・
背中一面に赤いブツブツが出てかゆみがとまらなかったが、
これもいい経験!!

お母さんの話

 KO**Aの同僚の子のお母さんが任地へやってきた。
お母さんは日本びいきだそうで、日本語がペラペラ。
私との会話は不自由なく日本語で行えるくらい。
新卒の娘が、一人で海外暮らし!というのが気が気ではなかったらしく
ついにやってきたのだった。

 日本語で会話できる分、お母さんとたくさん話ができた。
彼女は毎日のように、家に電話をしていたらしいが
話の内容がいいことばかりではなく、そばに居られずに
とても心配していたとの事。
まだ若い分、いろいろな事を心配したり、悩んだり、帰国したくなったりしたそうだ。
そんな嘆きを親が電話で聞くにつけ、
帰ってくればいいのに!と思ったとか。
 でも、ずっと一緒にいた私からみると
彼女のそうした思考はまだ任地生活の慣れないうちだけで、
今はかなり楽しんでいるから大丈夫という感じがしている。

 彼女はどこへ行っても値切るのがうまく、(国民性だと本人は言っている)
何事にも強気の交渉で、
私なんかよりよっぽどしっかりしている。

 そんな彼女がお母さんにしっかり甘えている姿を見て、
他のKO**Aのメンバーも家に電話をしていたようだ。

待っていてくれる人がいるというのは、本当にありがたいことだ。
こんな時にしか、なかなか感じられないことだが・・・

我が家のみなさんは、お変わりないでしょうか?

スラウェシの隠れ海へ行こう!



         2009年4月19日
 マカッサルから離れること車で5時間。
ここに、とてもきれいな海があった!
海辺は白い砂浜で、海底がばっちり見渡せる。
青い海とはこのことかと、感激!
密かなリゾートスポットらしいがまだ開発しきれていないようで、
お客もまばらで現地の人たちが海岸で遊んでいる。

小型の舟に乗り30分くらい行くと島があって、
その島の周りも白砂で、透き通る海とはこのことか!
という感じで、海底までもが見渡せる。

 舟から降り、シュノーケリング。
水面から海底を見渡すのだが、きれいな海で
海中のものが良く見える。
カラフルな色の生き物たちの生活が、底にはあった・・・

今までシュノーケリングをした中で、一番良く見れた海だった!!
気分良く、プカプカ浮かびながらわずかな時間を楽しんだ。

先輩隊員の家へ!




     4月13日(月)
マロスの帰りに先輩隊員の家へ。
南スラウェシでマカッサルより北には行ったことがなかったので、
マロスへの旅からこの県への旅は、とてもおもしろかった。
先輩隊員の家は、パロポ人。
マカッサル人とも、ブギス人とも違う。
こんな車で数時間のところで、全く違う民族が住んでいるというのも
このインドネシアならではだ。
 帰国まであと半年を迎えた先輩隊員だが、
その生活ぶりが現地の人との生活にすっかり溶け込んでいて、
そこに住む人たちに愛されているのが、よくわかった。
 とてもその雰囲気が心地よくて、見ている私まで嬉しい気持ちになる。
こういう日々の暮らしの中に、活動の原点があるのだと思う。
自然体で過ごす彼女と居ることで、
私も気持ちよく過ごすことができた。
とても魅力的な女性だ。

県が違うと見える景色も違っていて、
また生活の仕方も変わってくる。